70 しかしどこから、ケルソスのユダヤ人によって、イエスが隠れたことが語られたのか。実際、彼は彼について言っている:「一体、派遣されたどのような使いが、命令された諸々の事柄を告げるべきなのに、隠れるのか」と。実に彼は、彼を捕まえるために探していた人たちに次のことを言う方は、隠れなかった:「毎日、私は神殿の中にいて自由に教えた。そしてあなた方は、私を捕まえなかった[1]」。(それに)続けてケルソスによって再言されていることに対して、我々はかつて弁明したので[2]、以前に言われた諸々の事柄で私たちは満足しよう。実際、(ケルソスの)次の言葉に対して上の諸々の箇所の中で(我々の弁明が)書かれている:「彼が身体の中にあって、(人々から)信じられていないとき、彼はすべての人に際限なく宣べ伝えた。しかし、死者たちから復活することによって強力な信仰を提供したとき、一人の女子と彼自身の追従者たちの傍らに秘かに現れた」(とケルソスは言っていた)。しかし、彼が一人の女子にだけ現れたということさえ真実ではない。実際、『マタイによる福音』の中に次のことが書かれている:「安息日の終わりに、週の第一日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を観に行った。そして見よ、大きな地震が起こった。なぜなら主のみ使いが天から降り、そして近づき、意思を(脇に)転がした[3]」。そして少し後で、マタイは言っている:「そして見よ、イエスが彼女らに――明らかに、前述された二人のマリアに――会いに来て、『あなた方は御機嫌よう』と言った。そして、彼女らは向かっていき、彼の諸々の足を掴み、彼にひれ伏した[4]」。また、「彼は結局、懲らしめられているとき、すべての人たちに見られたが、復活したときは一人(の女子)に見られた(だけだ)」という(ケルソスの)言葉に対して(答えが)言われていた――「彼はすべての人たちに見られたわけではない」という(ケルソスの)言葉に対して(かつて)弁明したとき。そして今、我々は次のことを言いたい:すなわち、彼の諸々の人間的な事柄はすべての人たちにとって可視的であったが、諸々のより神的な事柄――私は、諸々の異なる事柄に対して関係を有する諸々の事柄についてでなく、違いに即した諸々の事柄について言っている――は、すべての人たちに許容されたわけではない、と。更にあなたは、ケルソスの諸々の足(取り)に逆らう自分自身に対する対立に注目してください[5]。実際、彼は、一人の女子と彼自身の追従者たち(の傍ら)に秘かに自分を現したと予め語っておきながら、直ぐに次のことを付け加えている:「彼は結局、懲らしめられているとき、すべての人たちに見られたが、復活したときは一人(に女子)にいられた(だけだ)。しかしそれは、前者に対立する必要があった」。しかし、「彼が懲らしめられているときは、すべての人に見られ、復活すると一人(の女子)に見られることに対立する必要があった」ということで、彼は何を考えているのか、我々は聞くことにしよう。実に、彼自身の言い回しに基づく限り、彼は、何か不可能で不条理なこと、すなわち、「懲らしめられているつときはすべての人に見られ、復活するとすべての人に見られない」と言うことを望んでいた。それともあなたは、「それは、前者に対立する必要があった」ということばをどのように解釈するつもりですか。



[1] Mt.26,55; Mc.14,49.

[2] Cf.C.Cels.,II,63-64.

[3] Mt.28,1-2.

[4] Mt.28,9.

[5] 自分自身に対する対立」は、意訳すると、「自己矛盾」である。訳者(朱門)は直訳している。

 

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