71 イエスはまた我々に、次の言葉の中で、(彼を)遣わした方が誰であったかを教えていた:「子でなければ、誰も父を知らなかった[1]」;そして、「誰一人として神を見たものがなかった。しかし、神である独り子、父の懐にいる方、その方が(父を)説明した[2]」。その方が神の語り部として、神に関する諸々の事柄をご自分の正真正銘の弟子たちに告げた。我々は、それらの事柄の諸々の痕跡を(聖文書の中に)書かれた諸々の事柄の中に発見し、神の語り部となるための諸々の出発点を得る。(たとえば)ある時は、我々は次の言葉を聞く:「神は光である。そして闇は、その方の中に決して存在しない[3]」;またある時は、「神は霊である。神を礼拝する者たちは、霊と真理との中で礼拝しなければならない[4]」。そればかりか、「父が彼を遣わした理由」は無数である。望む者はそれらの理由を学ぶべきである――彼について予め宣べ伝えた預言者たちから、他方で、福音記者たちから。しかし、少なからざる諸々の事柄が、使徒たちからも、取り分けパウロから知られるだろう。そればかりか彼は、敬虔な人たちを照らす一方で、罪を犯す人たちを懲らしめるだろう。ケルソスはそのことを知らずに次のことを作った:「彼は、敬虔な者たちを照らし、他方で罪を犯す者たちや改心した者たちを憐れむ」と。



[1] Mt.11,27.

[2] Jn.1,18.

[3] 1Jn.1,5.

[4] Jn.4,24.

 

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