72 それらの事柄の後で、彼は次のことを言う:「もしも彼が気づかれずにいることを望んでいたとすれば、どうして、彼が神の子であると宣べ伝える天からの声が(人々によって)聞かれたのか。しかし、もしも気づかれずにいることを望んでいなかったとすれば、どうして彼は懲らしめられたのか、あるいは、どうして死んだのか」。彼は、それらの言葉の中で、彼について書かれた諸々の事柄の不協和音を論駁することを考えている。彼は次のことを見ていない:すなわち、彼をめぐるすべての諸々の事柄がすべての、しかも行き当たりの人たち知られることを望んでいたのでもなければ、自分自身に関するすべての諸々の事柄が気づかれずにいることを望んでいたのでもないということ。とにかく、彼が神の子であると宣べ伝え、「彼は、私の子、私の意にかなった愛すべき子[1]」と言う声は、群衆の人たちに聞こえるように起こったと書かれていない――ケルソスのユダヤ人はそのことを考えていたけれども。そればかりか、極めた高い山における雲からの声は、彼と共に昇った者たちにだけ聞かれた[2]。実に、神的な声はそのようなもので、語る方が聞いてほしい望んでいるあの人たちにだけ聞かれた。しかし、私はまだ次のことを言っていない:すなわち、書き記されている神の声は、あらゆる意味で、打撃を受けた空気や空の打撃、あるいは、これに関する諸々の事柄の中で言われている任意の事柄であると(は私は言わない)。それは、感覚的な聴覚よりも優れた、より神的な聴覚によって聞かれる。そして、語る方は、自分自身の声がすべての人に聞こえることを望んでいないのであるから、より優れた耳を持つ人は神(の言葉)を聞き、魂の聴覚を鈍くされた人は、神が語るのを感覚しない。以上の諸々の事柄(が述べられたの)は、「どうして、彼が神の子であると宣べ伝える天からの声が聞こえたのか」という(ケルソスの)言葉の故である。また、「もしも気づかれずにいることを望んでいなかったとすれば、どうして彼は懲らしめられたのか、あるいは、どうして死んだのか」ということについては、記述の諸々の箇所の中で受難に関して我々によってより多くの言葉を通して言われた諸々の事柄で十分である[3]



[1] Mt.3,17.

[2] Mt.17,5.

[3] Cf.C.Cels.,II,23-34, 69.

 

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