77 それらの事柄の後で、彼にとってのユダヤ人は、明らかにユダヤ人たちの嗜好に即して、次のことを言う:「我々は、とにかく何とかして身体の中で復活し、永遠の生活を得ることを希望する;そして、我々に派遣された者がその模範と創始者となり、誰かを身体と共に復活させることは神にとって不可能でないことを示するだろうということを希望する。待望されたキリストが自分自身の中で復活の模範を示すとユダヤ人が言うかどうか、私は知らない。しかし、そうだとしよう。彼がそのことを考えもし言っているとしよう。そして、我々の諸々の論集から(我々がそのことを)語ったと我々に言う者に対して、我々は次のことを答えよう:「おお、御者よ。一体あなたは、(聖文書の)諸々の事柄――それらの中であなたは我々を非難すると憶測している――を読むとともに、他方でイエスの復活と、彼が『死者たちからの長子』であることを詳述したのではないか;それとも、それらの事柄が語られたのをあなたが望まないのであるから、(それらは)言われないのか」と。しかし、そのユダヤ人は諸々の身体の復活をケルソスの許でいまだに語り、受け入れているのであるから、そのことについて、諸々の身体の復活があると信じ、かつ、語る人――その人が、そのような事柄をみずから分節化し、その理拠について美しい仕方で第一人者になることができる人であろうと、あるいはそうでなくても、その理拠により神話的な仕方で同意する人であろうと――に対して、今、詳論するのは時宜を得ていると私は思わない。

ともあれ、以上の諸々の事柄が、ケルソスのユダヤ人に対して言われねばならないとしよう。しかしそれらの事柄に次いで彼は、「我々が見て信じるためにという言葉は、一体どこにあるのか」と言っているので、我々は彼に次のことを言おう:「預言者たちの中で語る方――我々が見て、彼が神の取り分であることを信じるために[1]――諸々の驚異的な事柄を行った方は、一体どこにいるのか」と。それともあなた方には、神がヘブライ人たちの種族に常に顕現するわけではないことについて弁明することが可能であるが、他方で我々にはイエスについて同じ弁明が許されていないのか。イエスは、一度だけ復活し、自分自身の復活について弟子たちを説得した。そしてその説得の程度たるや、弟子たちが受けた諸々の苦しみを通して次のことをすべての人たちに示すほどのものだった:すなわち彼らは、永遠的な命を見、言葉と業によって彼らに例示された復活を見ることによって、(この)生活の中のすべての諸々の苦難を嘲笑することを。



[1] Cf.Dt.32,9.

 

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