78 それらの後で(ケルソスの許の)ユダヤ人は次のことを言う:「それとも彼は、このこと、つまり、我々が不信仰になるために降ってきたのか」と。彼に対して次のことが言われるだろう:彼は、このこと、つまり、ユダヤ人たちのために不信仰を作り出すために来たのでなく、その不信仰が生じるだろうことを予知して予言し、ユダヤ人のたちの不信仰を諸国の民たちのための召し出しのために利用した。実際、彼らの「転落によって救いが諸国の民たちに」生まれた[1]。彼らについて、預言者たちの中にいるキリストは次のことを言う:「私の知らなかった民が私に仕えた。小耳の聴覚のためにその民は私に従った[2]」。そして、「私は、私を探求しなかった人たちに発見され、私を尋ねなかった人たちに顕わになった[3]」と。そしてユダヤ人たちが、イエスを諸々の事柄において現に取り扱ったように取り扱った後で、()生の中での懲らしめをも受けたのは明らかである。しかし、ユダヤ人たちは、我々を非難して次のことを主張するならば、次のことを言うがよい:あなた方にとって、神の摂理と人類愛は驚異的である。あなた方は懲らしめられているとともに[4]、エルサレムも、いわゆる聖所も、極めて神聖な崇拝も奪われたというのに、と。もしも彼らが、神の摂理に関して弁明しつつそのことを言うなら、我々は、次のことを言うことによってもっと善く対処するだろう:神の摂理は驚異的なものになった;なぜならその摂理は、諸国民に属する人たち――諸々の契約とは無縁で、諸々の福音とは関係ない人たち――がイエスを通して招かれるようにするために、あの民の罪を利用したからである[5]と。それらの事柄も預言者たちは予言していた:すなわち、ヘブライ人たちの民の諸々の罪の故に、神は(一つの)国民でなく、あらゆるところから選出者たちを選び出すだろう;そして、「世の諸々の愚かな事柄」を選び出して[6]、理解力のない国民を諸々の神的な言葉の中にいるようにさせるだろう――神の国がかの者たちから奪われ、この者たちに与えられることによって、と。差し当たり、多くの箇所の中でも、『申命記』の頌歌からの預言――主の位格を通して語られた諸国民たちの召し出しに関する預言――を引用することで十分である。それは次のような内容である:「実に彼らは、神ならぬものによって私を妬ませ、彼らの諸々もの偶像の中で(私を)怒らせた。そして私は、民ならぬものによって彼らを妬ませ、無理解な民によって彼らを怒らせるだろう[7]」と。



[1] Rm.11,11.

[2] Is.65,1.

[3] Homère,Od.XII,45;184.

[4] この一文の「あなた方」は、ユダヤ人たちである。

[5] Cf.Ep.2,12.

[6] Cf.1Co.1,27.

[7] Dt.32,21.

 

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