(ケルソスの許の)ユダヤ人は、それらのことに続けて次のように言う:「どのようにして我々は、彼を――すなわち、(ケルソスの下のユダヤ人が)聞いたように、他の諸々の事柄は差し置いて、みずから約束した諸々の事柄を何一つ示さなかった彼を――神と見なせるか。しかも、我々が彼を論駁し断罪し、懲らしめを受けるに値するとしたとき、彼は身を隠し、極めて恥ずべき仕方で逃亡し、捕らえられ、彼が使徒たちと名づけた者たちによって引き渡された。しかし――と、彼は言う――彼は神であるにもかかわらず、逃げることも、縛られたまま連れ出されることもできなかった。なお最悪なことに、救い主であり、もっとも偉大なる神の子にして使者と見なされていた彼は、彼と一緒にいた者たち――一切を親しく共有し、教師と見なしていた者たち――によって見捨てられ引き渡された」と。それらのことに対して、我々は次のように言うだろう:すなわち、我々でさえ、イエスの当時見られた可感的身体を神であると推測してないと。では、なぜ私は身体(のこと)をいうのか。魂のことも(言わない)。それについては、「私の魂に死に至る悲しい[1]」と言われている。むしろ、ユダヤ人たちの教えに従って、「主なる私は、一切の肉の神である[2]」という方、そして、「私の前に他の神はいなかった。そして私の後にもいないだろう[3]」という方は、預言者の魂と神体を道具として使う神であると信じられてきた。他方、ギリシア人たちによれば、「私は、砂の数と海の諸々の尺度を知っている。そして、私は唖を理解し、話さない者の話を聞く」と言う者は、ピュティア(という巫女)を通して語り理解される神であると見なされてきた。同様に我々によれば、神であり、万物の神の子であるみ言葉は、イエスの中で、次のように言っていた:「私は道と真理と命である[4]」、そして「私は門である[5]」、そして、「私はパン、天から降りてきた生けるパンである[6]」、その他、それらに似ていることを言っていた。

そこで我々は、彼――預言者たちによって多くの個所で、万物の神であり父に即して偉大な力であり神であるとして証された彼――を神と見なさなかったとしてユダヤ人たちを非難する。実際、モーセによる『創世記』の中で、父は彼に命じて次のことを言ったと我々は主張する:「光が成れ[7]」、そして、「天蓋が成れ[8]」、その他、神が成るように命じたすべてのものが(成れ)と。また、彼に次のように言った(と我々は主張する):「我々は、我々の像と似像に即して人間を造ろう[9]」。そして、命令されたみ言葉は、父が彼に命令したすべてのものを造った、と。我々は、それらのことを当て推量で言っているのではなく、ユダヤ人たちの許にもたらされた諸々の預言を信じて言っている。それらの(預言の)中で、神と諸々の被造物について、次のような言い回しで次のような内容の諸々の事柄が言われている:「彼は言った。そして、(それらは)成った[10]。彼は命じた。そして、(それらは)造られた[11]」と。実際、もしも神が命令した、そして諸々の被造物が創造されたなら、預言的な霊の望みに通りに[12]、御父のそのような命令を成就できる方は、私が敢えて言えば魂を内蔵するみ言葉であり真理である方以外に、誰がいるだろうか。他方で、イエスの中で「私は道と真理と命である」と言った方が、イエスの魂と身体を除いてはどこにも存在しないほどに、限定された何者かに成ったことを諸々の福音が知らなかったことは、多くの個所から明らかである。そして我々は、それらの内の若干を引用しよう。それらは次のような内容である:洗礼者ヨハネは、神の子が、あの身体と魂の中に在る者としてではなく、実にあらゆる所に至る方として、やがて間に立つだろうと預言して、彼について次のように言う:「あなた方のただ中に、あなた方の知らない方が立っている。彼は私の後から来る[13]」。そこで、もしも彼が神の子は、イエスの見える身体があったところにしか存在しないと理解するなら、どうして彼は、「あなた方のただ中に、あなた方の知らない方が立っている」と主張できただろうか。さらにイエス自身も、彼に師事した弟子たちの思慮を、神の子についてより大なることを思慮するに至るまで高めて言っている:「二人または三人が私の名前のために集まった場合、私は彼らのただ中にいる[14]」と。弟子たちに向かって次のように言った彼の約束も、そのようなものである:「そして、あなたは見なさい。私は、代の完成まですべての日々にわたり、あなた方とともにいる[15]」と。

しかし、我々はそれらのことを述べるが、神の子をイエスから分離しない。実にイエスの魂と神体は、何よりもオイコノミアに従って神のロゴスと一つになった。実際、「主に結び付いた者は、一つの霊である[16]」と述べるパウロの教えに従って、主に結び付くことが何であるかを理解し、何が彼と結び付いて主に対して主と一つの霊であるかを理解するすべての人にとって、あの時に合成されたものが、どうしてはるかに神的で偉大な仕方で神のロゴスと一つ(の霊)にならないだろうか。この方は、実際、ユダヤ人たちの中で「神の力[17]」であるとして示された――彼が行った諸々の逆説的な事柄の故に。しかし、それらの事柄は、魔術によって為されたとケルソスによって憶測されており、他方、当時のユダヤ人たちによって――私は彼らがベルゼブルに関する諸々の事柄をどこから学んだか知らない――「悪霊たちの支配者であるベルゼブルの中で悪霊たちを追い出す[18]」と憶測されている。私たちの救い主は、彼らが当時、極めて馬鹿げたことを言っているとして論駁した――邪悪の王国がまだ終わりを持っていない事実によって。そのことは、(このマタイによる)福音の文書を思慮深く読む人たちにとっては明らかなことになるだろう。しかし今は、その文書を解釈する時季ではない。



[1] Mt.26,38.

[2] Jr.32,27.

[3] Is.43,10.

[4] Jn.14,6.

[5] Jn.10,7.

[6] Jn.6,51.

[7] Gn.1,3.

[8] Gn.1,6.

[9] Gn.1,26.

[10] Ps.32,9.

[11] Ps.148,5.

[12] 「預言者に宿る霊が預言した通りに」ということ。

[13] Jn.1,26-27.

[14] Mt.18,20.

[15] Mt.28,20.

[16] 1Co.6,17.

[17] 1Co.1,18,24.

[18] Mt.12,24.

 

次へ