17 また彼は、我々の信仰の諸々の事柄をエジプト人たちの諸々の実践に並置しようとしている:「彼らの許では、近づく人に、神々しい聖所と諸々の杜と、諸々の門前の諸々の大きさと諸々の美があり、神殿には数々の驚くべきものと、至る所に卓越した諸々の台座と、著しく敬虔で神的な諸々の崇拝がある。また、中に入りもっと奥に行く人には、伏し拝まれる猫や猿や鰐や牡山羊や犬が鑑賞される[1]」とある。一体どんな類比――近づく者たちに対するエジプト人たちの諸々の荘厳な出現とのどんな類比――が我々の許にあるのか;また、荘厳な門前の諸々の物の後背で伏し拝められる諸々の非理性的な動物たちとのどんな類比があるのか;それとも、諸々の預言と、すべての者に臨む神と、諸々の神像に対する諸々の事柄を考えることは、実に彼に即した諸々の荘厳な事柄であるが、十字架に付けられたイエス・キリストは、伏し拝められる非理性的な動物と類比することなのか。しかし、もしも彼がそのことを言うなら――実際に彼は別のことを言わないだろうと私は思う――、私は次のことを答えるだろう:イエスに対する諸々の事柄の準備のためにもっと多くの諸々の事柄が、上の諸々の箇所の中で我々によって言われていること[2]、人間に即して彼に起こったと見られる諸々の事柄も、一切のために有益な仕方で、そして宇宙全体に対して救いをもたらす仕方で生じたということ。



[1] 省略

[2] Cf.C.Cels.,1,54,61; II,16,23.

 

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