20 そして我々は、ケルソスと同じ考えの人たちに次のことを言う:果たしてパウロは、卓越した知恵を何も想像せずに、「完全な人たちの中で知恵を語る[1]」と約束していたのかと。また彼が、自分の向う見ずに従って、パウロは知恵あることを何も持たずにそれらの事柄を語っていたと言うなら、我々は次のことを言って彼に返答するだろう:あなたは先ず、それらのことを言う者の諸々の書簡を明らかにしなさい;そして、それらの手紙――たとえばエフェソの人たちへと、コロサイの人たちへの手紙、テサロニケの人たちとフィリピの人たちとへの手紙、そしてローマの人たちへの手紙――の中の一つひとつの言い回しの意図にあなたは注目しなさい;あなたは二つのこと、すなわち、あなたがパウロの諸々の言葉を理解したこと、そして、(それらの諸々の言葉が)何かしら愚かで取るに足らないものであることををあなたが証明できることを。実際、彼が注意しつつ読書に専念するなら――当然だと私は思うが――彼は、素人的な言い回しの中で数々の偉大な事柄を思い巡らすその男の精神に驚くだろう;あるいは、驚かないなら、彼は侮蔑されるべき者として現れるだろう――彼が、その男の理解する者として語ろうと、あるいは、自分が理解したと想像した諸々の事柄を彼が反駁し覆すことを試みようと。



[1] 1Co.2,6.

 

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