21 そして私はまだ、諸々の福音の中に書き記されたすべての事柄の保守について言っていない。それらの事柄の一つひとつは、多くの人たちにとってばかりでなく、理解力のある或る人たちにとっても、多くの難解な理拠を含んでいる[1]。そしてその理拠は、イエスが「外部の」人たちに語った諸々のたとえの最も深い解釈を含んでいる。イエスはそれらの(たとえの)解明を、外部的な諸々の聴取を乗り越えて、私的に「家の中で」彼に近づく人たちのために保守した[2]。しかし、ある人たちが「外部(の人)」と名づけられ、他の人たちが「家の中に(いる人)」と(名づけられる)ことがどのような理拠を含んでいるかを理解する人は、驚くだろう。そして再び、イエス――然々の諸々の言葉や諸々の行為や自分自身の変容のために山の中へ昇るイエス、あるいは、彼の弟子たちが彼に従って行くところに登ることのできない病弱な人たちをいやすイエス――の諸々の過越[3]を見詰めることのできる人たちの中には、驚嘆する人がいるかもしれない。しかし、諸々の福音の諸々の真実に荘厳で神的な事柄や、パウロにおけるキリストの、すなわち知恵と理拠との精神[4]を詳述することは好機ではない。しかし、ケルソス――神の教会の内奥の神秘的な諸々の事柄を、エジプト人たちの猫たちや猿たちや鰐たちや牡山羊たちや犬たちに似せるケルソス――の非哲学的な嘲笑に対してはそれらの事柄で十分である。



[1] Cf.He.5,11.

[2] Cf.Mc.4,11.

[3] meta,baseij:「諸々の変化」とも訳せる。

[4] Cf.1Co.2,16.

 

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