24 そして再び、アスクレピオスに関して、ギリシア人たちであれ、夷狄たちであれ、人間たちの多数が、(彼の)幻そのものではなく、癒し善行し諸々の将来的な事柄を預言する彼を頻繁に見、そしてまだに見ると告白すると言われるとき、ケルソスは、我々が(そのことを)信じるべきだと要求すると共に、我々がそれらを信じるとき、イエスの信仰者たちを非難しない。ところが、イエスの諸々の驚愕的な事柄を観たと共に、自分たちの良心の善さを明晰に示す弟子たちに私たちが――諸々の()文書から良心を見ることができる限りで、彼らの潔癖さを私たちが見ることによって――同意するとき、我々はケルソスの許で愚か者たちであると名づけられる。もっともケルソスは、アスクレピオスを告白する人間たち――ギリシア人たちと夷狄たち――の言いようのない多数性を示すことはできない。ところが我々は、もしも彼がこのことを荘厳であると見なすなら、イエスを告白するギリシア人たちと夷狄たちとの何かしら言いようのない多数性を明晰に示す。そしてある人たちは、その信仰の故に何かしら逆説的なものを受け取ったことの諸々の印を――癒しを必要とする人たちのために、すべてのものに臨む神と、イエスに関する歴史と共にイエスの名前とを呼び求めることによって――自分たちが癒す人たちの中で示す。実際、彼らによって我々も、多くの人たちが困難な諸々の災難と諸々の脱自と諸々の狂気と、人間たちも悪霊たちも癒さなかった他の諸々の事柄とから解放されるのを見た。

 

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