25 またある鬼神が医者として、アスクレピオスと呼ばれつつ、諸々の身体を癒すのを、よしんば私が認めるとしても、そのようなことをアポロンの託宣として賛嘆する人たちに対して次のことを言いたい:諸々の身体の医術が中間的なもので、都会の(高貴な)人たちにばかりでなく、卑賤な人たちにも落ちる実践である一方で、将来の諸々の事柄に関する予知も中間的なものであるなら――実際、予知する者は必ずしも都会的なもの現さない――、癒す人たちや予知する人たちが決して卑賤ではなく、一角の都会人であり、神々であるとして受け取られることから遠くないことをあらゆる仕方で証明するのはどのようにしてかを、あなたは提示すべきである。しかし、彼らは、癒す人たちや予知する人たちが都会人たちであることを証明することはできないだろう。なぜなら生きるに値しない多くの者たち――賢明な医者でさえ、不適切な仕方で生きる者たちだとして癒すことを望まなかっただろう多くの者たち――が癒されたと言われているからである。

また、ピュティオンの諸々の託宣の中にも、あなたは指令された或る幾つかの事柄が理に適わないのを見出すだろう。それらの内の二つを差し当たり私は提示したい[1]:彼は、クレオメデース――私は彼が剣闘士であると思う――が等神的な諸々の尊敬によって尊敬されることを命令していた一方で[2]、私にはいったい何だか分からない荘厳なものを彼の拳闘術の中に見ていながら、ピュタゴラスやソクラテスを剣闘士の諸々の尊敬によって尊敬しなかった。そればかりか彼は、アルキロコス――極悪で卑猥極まりない主題の中で、自分自身の作詩術を例示し、卑猥で穢れた品行を示した男――を「ムーサたちの僕」と言うことによって[3]、神々であると見なされる「ムーサたちの僕」であることに基づく限りで、或る幾つかの敬神的な事柄を公言した。しかし、(行き当たりバッタリの)一見さんは、敬神的な者が必ずしも穏健さと徳とによって完全に飾られているわけではないと言うだろうか、私は知らない。また飾られる者であったとしても、アルキロコスの荘厳でない諸々の短長格詩が包含するような諸々の事柄を言うかもしれないかどうか、私は知らない。しかし、もしもアスクレピオスの医術とアポロンの託宣から直ちに神的なものが何も現れないなら、どのようにして人は理にかなった仕方で、それらの事柄がその通りであることを認めるために、彼らを何らかの清い神々として崇拝するだろうか――取り分け、ピュティオンの洞穴を通して、(その)周りに鎮座すると女預言者と呼ばれる者に、土的な身体から浄化された託宣的な霊であるアポロンが、女性的な諸々を通して入ってくるとき。しかし我々は、イエスと彼の力に関してそのようなことを何一つ思いなさない。実際、乙女から生まれた身体は、人間的な質料から成立したもので、人間的な諸々の傷と死を受容する。



[1] 省略

[2] Cf.CC.II,33.

[3] 省略

 

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