もしもそれらの事柄がそうだとすれば、どうしてユダヤ人たちとキリスト者たちは、互いに対して「ロバの影[1]」について探求するのか。なぜなら彼らは、共通に信じてきた諸々の預言から、預言された方が来たのか、それとも、決して到来したことはなく、いまだに待望されているのか否かを吟味しているからである。たとえ仮説として、預言者たちが告げた方がイエスでないということがケルソスに認められたとしても、それでもやはり、諸々の預言的な文書の意味の探求は「ロバの影」についてのものではない。(なぜなら)その探求の目的は、予め宣べ伝えられた方がどのような方として、そして何を為す方として預言されたか、そしてできることならいつ到来する方として預言されたのかが明晰に示されるようにすることだからである。我々は、上述の諸々の箇所の中で、多くの諸々の預言の中から若干(の諸々の預言)を引用して、イエスが預言されたキリストであることについて予め述べた。したがって、預言者たちが神から(霊感を受けて)語ったことを承認していることに関しては、ユダヤ人たちもキリスト者たちも間違っていない。間違っている者たちは、待望されている預言された方――彼については、誰が何処から(来るのか)が預言者たちの真の言葉に即して宣べられている――方に関して謬説を抱いている(人たちである)



[1] Cf.Platon, Phédre 260C.

 

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