そのようにケルソスは、エジプト人たちの許で別様に言われている諸々の事柄と、ヘブライ人たちの許で別様に言われている諸々の事柄との正しい検討者でなく、より愛着のあるエジプト人たちによって予め囚われており、一方で客人たちを虐待した人たちを真実な人たちとして是認し、他方で虐待されたヘブライ人たちは反逆を起こしてエジプトを捨て去ったと言った。しかし、それは彼が、次のことがどのようにして不可能なのかわかっていないからである:すなわち、エジプト人たちのそれほどの多くの反逆的な多数――反逆に起源をもつ多数――が反逆すると同時に言語を変えた民になり、長いことエジプト人たちの声を使っていた人たちが突然にヘブライ人たちの言語を全うすること(がどうして不可能なのか、彼はわかっていないからである)。しかし、(ケルソスが想定する)仮説に従って、彼らはエジプトを捨て去ったとき、共に育った声までも憎んだとしよう。そうすると、どうして彼らは、むしろシリア人たちやフェニキア人たちの言語をむしろ使わず、両者と異なるヘブライ語を作り出したのか。私の議論が言わんとするのは次のことである:すなわちそれは、「(ユダヤ人たちは)種族においてエジプト人たちでありながら、エジプト人たちに対して反逆し、エジプトを置き去りにして、パレスチナの方に行き、今日ユダヤと呼ばれている土地に居住した」という言葉は虚偽であるこということである。なぜなら、ヘブライ人たちの言語は、エジプトへの彼らの下行以前の父祖伝来のものだったからであり、ヘブライ語の諸々の文字――モーセはそれらの(の文字)を使って、ユダヤ人たちの許で聖なるものと信じられている五書を書いた――はエジプト人たちの(諸々の文字と)異なっていたからである。

 

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