同様に次のことは虚偽である:すなわち、「ユダヤ人たちは、エジプト人たちであるにもかかわらず、蜂起から起源を取った」こと、そして、「他の人たちはユダヤ人たちであったにもかかわらず、イエスの諸々の時にユダヤ人たちの国家に対して反逆し、イエスについて行った」こと。実際、キリスト者たちの蜂起の業を、ケルソスや彼と同じ考えをする人たちは証明することができないだろう。それに、ユダヤ人たち――彼らには、諸々の家財のために諸々の武具を取り、敵たちを殺害することが許されている――から起源を取ったキリスト者たちの組織の起因が蜂起であったなら、キリスト者たちの立法者も、人間の殺害を全面的には禁止しなかっただろう。そもそも彼は、不正極まりない方だったとしても、自分の弟子たちによる人間に対する敢行が正しいとは決して教えていない。実際に彼は、人間の如何なる殺害を容認することを、自分自身の神内的な律法に相応しくないと考えていた。またキリスト者たちも、蜂起から起源したのであれば、これ程に柔和な諸々の法律を認めなかっただろう。それら(の法律)を通して、「(屠られる)諸々の羊のように[1]」取り除かれることが彼らに起こったのであり、迫害する者たちに復讐することは片時たりともできなかった。なぜなら彼らは、敵対者たちに復讐しないことを教えられて、柔和で人類愛的な法制を守っていたからである。それ故、たとえ非常に強力であったとしても戦う権能を有していない彼らが成し遂げなかったことを、彼らは神から受け取った。なぜなら神は、彼らのためにいつも戦ったのであり、キリスト者たちに対して立ち上がり彼らを取り除くことを望む者たちを諸々の時機に鎮圧したからである。実に記憶のために――僅かな者たちが敬神のために戦うのを見入って、彼らが確証された者たちとなり、死を見下すようになるために――諸々の時機に僅かで数えるのも甚だしく容易な者たちがキリスト者たちの敬神のために死んできた。ただし神は、彼らの(属する)民全体が戦いに巻き込まれることを禁じている。なぜなら神は、その民を強固にすること、そして一切の土地が、そのような救済的で敬神極まりない教えに満たされることを望んでいたからである。さらに、より弱い人たちが死を巡る不安から休息するために、神は信じる者たちを前もって慮り、彼らに対する一切の陰謀を(ご自分の)意思だけで粉砕し、王たちも各地の支配者たちも民たちも彼らに対して甚だしく結束しないようにした。それらの諸々の事柄が、次のこと――すなわち「蜂起が、(まず)ユダヤ人たちが成立したこと、しかし後にキリスト者たちが生じたことの起源になった」というに関してケルソスによって言われた諸々の事柄に対する反論である。



[1] Ps.43,23; Rm.8,36.

 

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