そして(ケルソスは)彼が、我々によって到来したと言われ、ユダヤ人たちによって審判者として到来するだろうと言われていると言いつつ、言われいる事柄は極めてて恥ずべきもので、長い論駁さえ必要なしとして非難できると思っている。そして彼は、次のことを言う:「神にとって、その種の下降の意味は何か」と。彼は次のことを見ていない:まさに我々によると、下降の理解は、先導的に福音の中で言われている諸々の事柄である:すなわち、「イスラエルの家の失われた羊たち[1]」を回心させること、そして第二に、かの人たちの不信仰の故に彼らから、(彼らによって)名指されるところの神の国を取り上げて、かつてのユダヤ人に対してキリスト者たちという「別の農夫たち」に与えることである。キリスト者たちは、神の国の「諸々の実」を――御国の実りである各自の行為の諸々の時季において――神に報いたからである[2]

我々は、「神にとって、その種の下降の意味理解は何か」と問うケルソスの質問に対して、多くの諸々の事柄の中から僅かな諸々の事柄を述べた。しかしケルソスは、ユダヤ人たちによっても、我々によっても言われなかった諸々の事柄をみずから表明して次のことを言う:「それは、彼が人間たちにおける諸々の事柄を学ぶためなのか」と。実に我々の誰ひとりとして、「人間たちにおける諸々の事柄を学ぶために、キリストは(人間の)生活に到来する」とは言わない。次に、「彼は人間たちにおける諸々の事柄を学ぶために(到来する)」と、ある人たちが言っているかのように、(ケルソスは)それに対して、「実に彼はすべてのことを知らないのか」と自分自身に言い張っている。次に彼は、(ある人たちが)「彼は(すべてを)知っている」と答えたかのように、再び疑問に思って次のことを言う:「いったい彼は(すべてを)知っていながら、矯正しないのか、また、神的な力そのものによって矯正することさえできないのか」と。しかも彼は、それらすべての事柄を軽率に言っている。実に神は常に、ご自身のみ言葉――世代にわたって諸々の魂の中に降りていき、神の友たちと預言者たちを準備しするみ言葉[3]――によって、言われた諸々の事柄を聞く者たちを矯正している。そしてキリストの到来において、キリスト教に即したみ言葉によって、望まない者たちでなく、神に喜ばれるより優れた生活を選び取った人たちを矯正する。

しかし、ケルソスが次のことを質問して言うとき、彼がどのような矯正の実現を願っているのか私は知らない:「いったい彼にとっては、神的な力によって矯正することはできないのか――自然本性においてそのことの雨に誰かを派遣するのでなければ」と。いったい彼は、神――突如として悪徳を取り除き、徳を植え込む神――によって幻を与えられた人間たちによって矯正が実現すると望んでいたのか。確かに他の者は、そのようなことが自然本性に適っているかどうか、あるいは、自然本性におて可能かどうかを探求するだろう。しかし我々は、次のことを言うだろう:「実にそのことは可能であるとしよう。そうすると、我々の自由意志はどこにあるのか。どこにおいて真実なものへの賛従は賞賛すべきものになるのか、あるいはどこにおいて虚偽からの離反は許容され得るものとなるのか。そればかりか、そのことが可能であり、しかも相応しい仕方で実現されると、一たび認められれば、なぜ人はむしろ、ケルソスに何か類比することを始めに探求しないのだろうか――矯正を必要とせず、直ちに熱心で完全な人間たちを神的な力によって作ることは、神にとってできないと主張することによって。それらの諸事は、門外会で無理解な人たち(の心)を掴むことができるが、諸々の事柄の本性を洞察するものを掴むことはできない。なぜなら、もしもあなたが徳の自発性を破壊するなら、あなたは徳の実質を破壊したことになるからである。それらのことに対しては全き研究が必要である。ギリシア人たちも、摂理に関する諸々の中でその徳に関して少なからざる諸々の事柄を述べてきたが、ケルソスが提示した諸々の事柄を言うことはないだろう。ケルソスは、次のことを言っている:「彼は知っているが、矯正しない。それどころか神的な力によって矯正することさえできない」と。我々も、多くの箇所で我々に可能な限りでそれらの諸事に関して述べてきた。また諸々の神的な言葉も、それら(の言葉を)聞くことのできる者たちに証明した。



[1] Mt.10,6; 15,24.

[2] Mt.21,41,43.

[3] Sg.7,27.

 

次へ