ケルソスが我々とユダヤ人たちに差し向けたことは、彼に対しても言われるだろう:「おお、御仁よ。すべてのものに臨む神は、人間たちにおける諸事を果たして知っているのか、それとも知らないのか。しかしいやしくもあなたは――あなたの論考が表明しているように[1]――神と摂理が存在すると措定しているのであるから、彼が(人間における諸事を)知っているのは必然である;しかしもしも彼が知っているなら、何故に彼は矯正しないのか、と。そもそも我々には、何故に彼は知りながら強制しないのかということを弁明しる必要があるのか。ところあなたは、論考を通してあなたがエピクロス派であることを全く明らかにせず、むしろ摂理を承知している振りをしているが、何故に神は人間たちにおけるすべての諸事を知っているにもかかわらず、矯正せず、神的な力によってもすべてのものを悪から解放しないのかと、同じようにあなたに対して言われないのだろうか。しかし我々は、(他者を)矯正する者たちを神が常に遣わすと、恥じずに言う。なぜなら、最善の諸事に呼び招く諸々の教えが、神がそれらを与えたことによって、人間たちの中に存在するからである。もちろん、神に仕える者たちの間には、多くの違いがある。そして、完全かつ純粋に真理の諸事に精通する者たちはわずかである――たとえば、モーセと預言者たちがそうであったように。しかしそれらすべてのものたちに優って、イエスを通した矯正は偉大である。なぜなら彼は、大地の一角にいる者たちだが癒されるのを望んだだけでなく、彼に依存する限りで、あらゆる場所の者たちも癒されることを望んだからである。実に彼は、「すべての人間たちの救い主[2]」として(この世に)来た。



[1] Cf.,Contra Celsum,I,57; IV,99; VII,68.

[2] 1Tm.4,10.

 

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