2018/12/07
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第3回
第4章 生け贄
現世に残された人々と死者との交流は、埋葬の習慣以外にも、様々な形で行なわれてきた。それはたとえば、死者の霊に
供
え
物
をし、その
冥福
を祈る供養の習慣である。
死出
の旅路のための食糧を提供することが、アニミズム社会では広く行われた。こうすることで人々は、死者の霊魂が永遠に生き続け、死者の安らかな眠りが保証されると考えている。たとえば、日本で行われるお盆(
盂蘭盆会
[1])では、死者の霊魂を各自の家で向かえて供え物をし、また送り出している(
精霊
流し・花火)。しかしながらこれは、仏教本来の教えに基づく儀礼ではなく、アニミズム(神道)の影響による。
原始社会の人々が抱いた死の問題(人間の問題)は、取り合えず永遠の霊魂への信仰によって克服された。次の問題は、「命はどこから来るのか」という問題であった。本章では、この問題に対して、原始宗教がどのように応えたか――どのようなサービスを提供したか――を検討することにしよう。
この問いの背後には、豊饒多産(繁殖力)に対する崇拝(人々の根深い欲求)が隠されているように思われる。おそらくは生物学的な本能に動かされながら、人々は、子どもに恵まれ、自分の家族や同族そして人類が永遠に存続することを願う。そのために古代から人々は、命の誕生や死の神秘を
司
る霊魂の存在を信じたと言える。
命(赤ん坊)は、どこから、どのようにしてやって来るのか、という子どもなら誰でもする質問は、原始社会でもやはり行なわれていたことだろう。多くの子どもが性的な問題について自分なりの「理論」をつくりあげるように――たとえば赤ん坊はコウノトリが運んでくるなど――、我々の先祖も同じようなことを考えたに違いない。古代人が何を望み何を信じていたかは、文献が残されていないので正確なことは分からない。しかし、未開人の生活習慣や、古代の宗教的な遺物(芸術作品)を通して、ある程度のことは推測することができる。
フランスの宗教史家オドン・ヴァレによると[2]、ニューギニアに土着の部族が信仰する宗教(アニミズム)には、命の誕生の神秘すなわち妊娠の神秘に関して、様々な考え方があるとされる:
@
トロブリアンド族では、子どもは母親の先祖の霊魂の生まれ変わりである⇒父親は妊娠にはまったく関係しない。
A
バルヤ族では、受精のためには精子だけが必要であり、卵子の存在は認められていない。母は単に子供をもらって胎内で育てるだけである。
長い間、妊娠という出来事は謎に満ちた神秘とされ、人々はその原因を時には男性に、時には女性に求めてきた。しかし男と女の役割で言えば、女性が妊娠するとその様子がはっきり眼に見える形で現れたが、妊娠に関する男性の役割は眼に見えず、非常にあいまいである。したがって妊娠における男性の役割は否定されることが多く、女性の役割が強調された。キリスト教における聖母マリアの
処女
懐胎
の信仰は、神の子イエス・キリストは、
汚
らわしい肉体的な交わりなしに
乙女
から生まれるべきだという神学的
要請
に帰せられるが、古代のアニミズム社会の生殖に関する考え方を反映していると解釈することもできる。あるいは、男性との
煩
わしい関係を持たずに子供をもうけたいという女性の側の
密
かな願望を反映しているのだろうか。ともあれ、種の保存(豊饒多産)を最優先する古代社会では、子孫を目に見える形で産む女性の地位は高く、したがって母権社会が主流であった。
母としての女性の肉体的な役割は、「母なる女神たち」の小像の存在からも見ることができる。これは、女性の大きな尻や胸や下腹部を強調した小像で、紀元前3万年頃のヨーロッパに広く分布していた。紀元前7千年から始まるとされる日本の縄文時代にも、これに似た像、すなわち土偶が作られている。しかしなぜ、「父なる神々」にあたる男性像がこの時代には存在しないのか。これは、妊娠の神秘において男性の役割がはっきりしなかった時代を考えれば、説明がつく。命の誕生において積極的な働きをしたのは女性だからである。
しかし他方で、原始杜会における様々な地域で男性像とは言わないまでも、男性の体の一部を表した像、つまり、勃起した男根像が大量につくられ、崇拝されていた。これらの男性性器像は、生殖における男性の役割が不可欠であることが意識されていたことを示すとともに、地位を高めた男性の支配力や生殖力を象徴していると考えられる:
@
現在でもサハラ以南のブラックアフリカでは広く男根崇拝が行なわれている。たとえばナイジェリアのイビビオ族では男根像を祭った神殿、粘土で作った男根像を墓に乗せる風習もある(←男根は命のしるしであると同時に死を払い
除
ける力を持っている)。
A
かつて中央アフリカの多くの部族では、若い兵士たちが敵の力を自らに取り入れるために、敵兵の男根を食べたり、戦利品として身に着けたりしたとされる。
B
古代ローマの地中海地方でも、男根崇拝は盛んだった。女性たちは「不吉な眼」とよばれる悪魔から身をまもるための魔よけを首からさげていたが、その魔よけは男根の形をしていた。
時代がくだり父権社会が優勢となると、このような男根だけの像に体の他の部分が加わり、勃起男性像として崇拝されるようになった。これらの男性像は、様々な神話や伝説の神に姿を変えている:
@
エジプト神話・・・生殖と豊饒の神ミン。
A
ギリシア神話・・・生殖と豊饒の神プリアポスや豊饒の神パン。
B
インド神話・・・ヒンドゥー教の主神シバ:リンガ(男根)の形で広く崇拝されている。
男根がこのように崇拝されるようになった最大の理由は、女性優位の母権社会から男性優位の父権社会への移行と並行して、男性が社会の中で果たす役割(支配力)と、生殖面で果たす役割(生殖力)が明瞭に認められたからであろう。
原始社会において豊饒多産(繁殖力)が崇拝の対象となったのは、当時の人口が少なかったことと関係がある。数が少なかったため、人間は貴重な存在であり、命は神聖なものとされた。豊饒多産の願望のひとつ現れとして、神殿内で女性が男性に、あるいは男性が女性に身をまかせる「神聖売春」がある。これはほとんど世界中で行なわれていた風習で、現在でもアフリカやインド、オセアニアの未開の地域で行なわれているらしい。彼女たち、あるいは彼らは、売春によって、豊穣多産の神を賛美し、命をもたらす神(々)の働きを代行した。それゆえ彼らあるいは彼女らの売春は神聖視された。
古代社会では、両性具有者(男性でありながら女性の服を身にまとい、ときには去勢までして女性のように振る舞う人)は、男女の長所を兼ね備えた人物、事物を超えた力を持つ精霊に近い存在と考えられた。おそらく両性具有者は、事物を超えた力(超人的な力)を身に着けたいという人間の願望を反映していると言えよう。
女装した男性の歴史は古く、紀元前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスによれば、世界最初の騎馬遊牧民であるスキタイ人[3]の中にすでに存在していたとされる。今日でもインドに、両性具有者(ヒジュラHijra)が存在し、特別な社会的役割を果たしている。インドの両性具有者を長年取材し続けた石川武志によると:
「インドには男でもなく女でもない「第三の性」を生きる人々がいる。ヒジュラと呼ばれ、ウルドゥ語で『男女両性具有』という意である。家族のように共同体を形成し、社会的に制度化された役割をもっている。
ヒジュラがすべて男女両性というわけではなく、去勢者や変性者などを含み、独自のジェンダー意識を持っている。そして特別な性からインド社会の中で、儀礼、芸能、シャーマンのような社会的な役割を果たしている[4]」。
もちろん両性具有者は、男女の両性を兼ね備える限り、子どもを残すことができないが、その代わり多くの「後継者」に恵まれる場合が多い。カトリックから仏教まで、あらゆる宗教における聖職者もまた、「聖なる両性具有」であり、遺伝学上の子どもこそいないが精神的な子どもを持ち、社会的にも高い地位を得ている。彼らが男女を問わず他者を引き付けることができるのは、聖なる衣の下に、性を押しこめているからである。宗教が性別を超えて人々を団結させるものであるなら、聖職者は自分の性別を捨てて信者を導く必要があるのだろう。
しかし、このように原始宗教で認められた神殿売春は、今日の我々が宗教に対して期待する気高い精神性や厳格なモラルと矛盾しているのではないか。アラビア語の「ハーレム」という言葉が、この矛盾をよく表しているように思われる。
一般に「多くの
妾
・愛人を集めた部屋」という意味で使われるアラビア語のハーレムという言葉は、不道徳の象徴として用いられるが、本来、「神聖にして犯すべからざるもの」という意味の言葉を持っている。それは、「禁止されたもの」という意味を持つポリネシア語の「タブー」(taboo)という言葉に近い。すなわち人間の生殖行為は、「神聖にして犯すべからざるもの」、「神聖にして近寄りがたいもの」、「神聖にして見てはいけないもの(不道徳)」という両面を持っている。
人々はなぜ、神に
生
け
贄
(自分の財産や大切なもの、またときには自分自身)を
捧
げるのか。フランスの哲学者H.ベルクソン[5]は、「生け贄とは神の
恩寵
(=恩恵・恵み)を得るため、あるいは神の怒りを招かないために奉納されるものである」としている。人はだれでも過去の過ちを清算し幸せな未来を生きたいと願っている。この
贖罪
の願望が、万物の運行を司ると信じられているもの(精霊・神などの人格的存在)に、自分にとって大切なものを供え物・生け贄として捧げるという行為に具体化する。アニミズムは、言ってみれば、生け贄の奉納を提案することで、人間の幸福追求(罪意識の解消)の問題に応えたのである。
しかし生け贄は、必ずしも自分にとって大切なものとは限らない。たとえば敵もまた生け贄とされる。中央アメリカのアステカ族では、戦争で捕えた何千人もの敵兵から心臓を取り出し、神に捧げていた。それは、流れ出る敵兵の血が、天空を駆け巡る太陽に活力を与えると信じられたからである。
しかし、敵を生け贄にするという考え方は、通常の宗教的な理想からは遠く隔たっているように思われる。それはむしろ、復讐というあまりにも人間的な感情に基づいて行なわれたのではないだろうか。おそらく敵(捕虜)を「神への生け贄」としてささげる行為の背後には:
@
捕虜を見世物(見せしめ)として殺害し、国家ないしは支配者の威信を示すこと
A
捕虜たちに食料を与える余裕がなかったこと(与える必要はないこと)
B
捕虜を生かすことは、内部に敵(反乱分子)を抱えることになる(懸念)
というあまりにも人間的な欲求があったのではなかろうか。
人身御供の事例は日本にも見出される。それは、今日でも、
人柱
伝説として各地に伝えられている。たとえば豊臣秀吉が滋賀県の今浜に建てた長浜城では、一人の女性が人柱として埋められたと伝えられている。人柱とは、城・橋・堤防などの工事にあたって、神の心を和らげるために、生け贄として生きた人を水底、または地中に埋めること風習である。
しかし日本に限らず東アシアでは、自己犠牲を伴う
人身
御供
の儀礼が広く存在していた。たとえばかつての日本では、不名誉を避けるためにみずから死を選ぶ切腹という儀礼があった。また、インドには、夫に先立たれた妻が、夫の遺体とともに生きたまま火葬されるサティーという風習があった(ヒンズー教)。これは自分の命を犠牲にすることで、どこまでも夫に忠実であることを示し、夫と自分の霊魂を救済することが目的であったと考えられている。さらにインドのジャイナ教では、断食を続けて死に至る断食死という風習がある。断食死によって命を犠牲にした者は、究極の救いを得ることができると信じられている。
敵の生け贄の対極にあるのが、罪を知らない幼い子どもの生け贄である。インカ族[6]では心身ともに申し分なく健全であるという理由で、10歳の子どもが生け贄として選ばれていた。しかし子どもの生け贄について、どう解釈するかは難しい。宗教的な理由を口実にして、社会の重荷である孤児を
厄介
払
いすることが目的だったのか。それとも、家族にとって財産ともいえる大切な子どもを神に捧げて、一族の霊魂の救済を願うことが目的だったのか[7]。子どもを生け贄にする理由はおそらく、そのどちらでもあったろう。
生け贄として子どもを殺すよりも、動物を殺す方が簡単だろうか。現代人はおそらく、後者の方が簡単だと言うであろう。しかし20世紀初頭まで、ヨーロッパを含む多くの貧しい農村では、子どもの死より雌牛の死を深く悲しむ場合が多かったとされる。なぜなら雌牛は一家の貴重な収入源だが、「過剰な」子どもは養育に費用のかかる一家の重荷でもあったからである。そのようなことを考えると、動物が人間の代わりに生け贄として捧げられるようになった本当の理由を知ることは難しい。しかし真の理由はともかく、人間の生け贄も、動物の生け贄も、等しく神に喜ばれる貴重な生け贄と見なされていたことに疑いはない。この問題を考えるときに思い出されるのが、『旧約聖書』(ユダヤ教とキリスト教の聖典)に記されたアブラハムのエピソードである[8]。聖書によれば、ユダヤ人の祖先アブラハムは、神の言葉に従って、ひとり息子のイサクを生け贄として捧げようとした。しかし最後に神が雄羊を出現させて、それをイサクの代わりに殺すよう命じた。それ以降、神の怒りを
鎮
め人間の罪を
償
うために、人間の代わりに雄羊が生け贄とされるようになった。
この出来事は、今日でも、神へのアブラハムの絶対的忠誠心を示すものとして、キリスト教(アブラハムによるイサク奉献)においてはもちろんのこと、ユダヤ教の「
贖罪
の日」やイスラームの「犠牲祭」で記念(追憶)されている。ギリシア神話の中にも、このエピソードに似た話がある[9]。
[1]
7月13日から16日までの4日間:サンスクリット語の「ウラバンナ」の音訳。
[2]
Odon
Vallet, Une autre histoire des religions /1 : l’héritage des
religions premières, Gallimard, 1999.
[3]
イラン系の騎馬民族。紀元前6世紀から、黒海北岸に遊牧国家を建てたが、前3世紀頃に衰退した。
[4]
http://home.interlink.or.jp/~takeshii/frame-j.htm 参照。
[5]
アンリ・ベルクソン(Henri
Bergson 1859〜1941):彼によると、真の実在は純粋持続であり、持続が弛緩すると生命は物質化するが、持続の緊張は生命の飛躍となり創造的進化となる。著書:『創造的進化』『道徳と宗教との二源泉』など。
[6]
南米のペルー南部高地から出たケチュア族が中央アンデス地帯に築いた帝国の中心部族の名称。
[7]
旧約聖書の記事によると、イスラエルでは紀元前500年頃まで子どもの生け贄が行なわれていたようである。エルサレム近郊にあるゲヘナは、その地で崇拝されていた異教の神モレク(「王」の意味)に捧げるために、生け贄の子どもを火で焼く場所とされていた。ゲヘナはのちに「地獄」という意味にもなる。地獄の業火というイメージがつくられていったのも、この故事による。
[8]
ユダヤ教とキリスト教では、アブラハムがイサクを生け贄にしようとした。イサクは、アブラハムの正妻から生まれた子である。イサクは、キリスト教の開祖イエスの遠い祖先である。しかしイスラームでは、生け贄に捧げられそうになったのは、イサクの異母弟イシュマエルだとされる。イシュマエルは、イスラームの開祖マホメットの先祖だとされる。
[9] アルゴスとミュケナイの王アガメムノンは、狩猟の女神アルテミスに娘のイフィゲネイヤを生け贄として捧げなければならなくなった。しかし直前になって哀れみを感じた女神アルテミスは、牝鹿を身代わりとして殺させ、イフィゲネイヤを連れ去って神官にした。ところが、異国人(おもに犯罪者)を女神の生け贄として捧げる役目を負っていたイフィゲネイヤの前に、あるとき弟のオレステスが連れてこられた。彼女は、罪人を赦すには、罪人を殺すのではなく清めなければならないと言って、弟を女神の犠牲にすることを拒んだ。女神アルテミスは、イフィゲネイヤの主張を受け入れ、それ以降は人間に代わる別の生け贄を捧げるように定めたという。