2018/12/07
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第4回
第4章 生け贄
生け贄が動物の場合でも人間の場合でも、それを捧げる者は、食欲や性欲の面で犠牲を強いられる。生け贄の儀式を司る祭司は、儀礼の前に断食を行ない、禁欲生活をしなければならない。祭司は生け贄の儀式の前に、たとえばアステカ族では40日、マヤ族では60日以上も断食をしなくてはならなかった。カトリックでは、ミサという特殊な生け贄の儀式の一時間前から水以外の飲食が禁止される。生け贄を捧げる祭司に一時的に禁欲が要求されるのは、彼らが神聖な所(祭壇)に立つからだろう。ここに我々は、性を聖としつつ
穢
れたものとする神聖概念の両義性を見出すことはできまいか。
しかし、あらゆる宗教に生け贄を捧げる祭司がいるわけではない。生け贄の儀礼のない宗教には、それを
司
る祭司も必要ない。ヒンドゥー教、神道、道教、儒教には生け贄(供え物)の伝統があるが、仏教[1]とジャイナ教では生け贄の儀式は行なわれず、代わりに祈りと瞑想が重視される。イスラームでは生け贄が行なわれたことは一度もない[2]。
ユダヤ教では紀元70年にエルサレム神殿が破壊されてからは、生け贄が捧げられることはなくなった。これはしかし、エルサレムに祭壇が再建されれば、生け贄が再開されることを意味している。
プロテスタント教会は、キリストが十字架の上で死んだ事実だけを生け贄と考えるため、それ以外の生け贄の存在を拒否する。しかし、プロテスタントがキリストの十字架上の死を生け贄と認めているのは明らかである。
カトリック教会とギリシア正致会(東方正教会)では、毎日の重要な儀礼であるミサ(感謝の祭儀)において生け贄の行為が繰り返されている。この儀礼は、人類の幸福のために生け贄となったイエス・キリスト(神の子羊)の十字架上での死を再現するものと信じられている。キリスト教がアニミズムと共有するものは多い。
現代では、神と人間と動物は、まったく別の存在と考えられている。しかし原始社会では、その境界線は必ずしも明確ではなかった。なぜなら神と人間と動物の生命原理は、いずれも等しく霊魂・精霊だったからである。
たとえばギリシア神話には、人頭獣身の怪物が数多く登場する。体はライオンで頭は人間のスフィンクス、体は魚で頭は女性のセイレン[3]、それとは逆に、体は人間で頭は牛のミノタウロス[4]などもいる。また古代エジプトの神々の中には、頭がジャッカルのアヌビス神、カバのタウレト神、ワニのセベク神などもいた。このように、人間の体に動物の一部を移植することで、ある種の聖なる力を持つ存在が作り上げられた。ただし、日本の民話に見られる
河童
[5]は神・精霊ではなく、伝説上の単なる肉食の水陸
両棲
の動物に過ぎない。
こうした現象は、ほとんど世界中で見ることができる。チリのアラウカン族では、不幸をまき散らすとされるピリャン神の弟子が、人間の頭とヘビの体を持っている。古代メキシコでは、半伝説的な王の化身であるケツァルコアトル神が「羽根のあるヘビ」だとされた。ハワイ島のカマプアア神は、手と足は人間で、体は豚の姿で表現される。インド神話では、頭は猿で体は人間のハヌマット神や、頭は象で体は人間で4本の手を持ったガネーシャ神が登場する。
ユダヤ教とキリスト教の聖典である『旧約聖書』には、雄牛あるいはライオンの姿をしたメソポタミア起源の精霊ケルビム(=スフィンクス)[6]についての記述がある。ケルビムは、やがてキリスト教において天使に姿を変えるが、かつて動物であったことを物語るかのように、丸々とした子どもの姿で登場する。
動物との一体化の願望は、動物の頭部をかたどった仮面をかぶったり、動物の皮を着たりして踊る風習にも現れている。アフリカではこのような風習が広く見られる。こうすることで、動物の持つ特別な力、たとえば百獣の王ライオンの強力な力や雄牛の精力などを自分のものにすることができると信じられたのだろう。
動物との一体化の願望の延長線上に、カニバリズムがある。先史時代の原始社会に、人間が人間を食べるカニバリズム(cannibalism
/ anthropophagi食人風習)が存在していたというフロイト[7]の説は、研究者たちに激しい衝撃を与えた。彼の『トーテムとタブー』によると、原始遊牧社会において、息子が父親、すなわち生みの親を殺して食べる習慣があったとされる。その目的は、対象の肉を摂取することにより、対象と同じ力や効果を得ようとすることであった。
もちろん現代社会では、そのような行為は、死体損壊罪に問われよう。
しかしカニバリズムの名残は、キリスト教の聖体拝領にも見られる。ミサにおいて聖体は、「神の子」イエス・キリストの体であり、その血と肉を食べることによって信者はイエスと一体化して聖なるものとなると信じられているのである。
狩猟採集で生活した原始社会の人々にとって、自然すなわち動植物が提供する恵みは生きていく上で不可欠なものであった。そのため、人間生活に関係の深い特定の動物が、様々な理由で神聖視された。このように神聖視された存在は、ポリネシア語でタブー(
禁忌
・禁制)と呼ばれる。タブーとは、「神聖にして犯すべからざるもの」という意味である。
たとえばピレネー山脈のクマ、中国の四川省のパンダなと、原始宗教においてタブーとされた動物は、人々によって保護され、人々と共に安心して生きることができた。アメリカの先住民の諸部族の間では、それぞれの部族の保護者・祖先と見なされた動物は、現地語でトーテム(totem)と呼ばれ、特別視され手厚く保護された。それぞれの部族が定めたトーテムは、軍隊における連隊旗と同じく、帰属のシンボルとなっている。このようにトーテムは、同じ部族の者を団結させ、他の者を除外する役割を果たしている。このような考え方をトーテミズム(totemism)という。
このトーテミズムは、自然の中で集団生活の規律や知識を青少年に習得させるボーイ・スカウト[8]の活動の中で生かされている。たとえば、カブ隊(8〜11歳の年少隊)のカブは、キツネ・クマ・オオカミ・トラ・ライオンなど食肉
哺乳
動物の子やサメの子を意味する。トーテミズムは、構成員の団結を深めるための象徴として、大きな役割を担っている。それは、会社のシンボルマークとなって現れていもいる。たとえば、自動車会社プジョーのライオン、石油会社エッソのトラ、服飾メーカーのラコステのワニなどは有名であろう。
なお、トーテミズムの考え方は、自然保護に役立つと思われる。レッドデータブックに記載されている絶滅危惧種は、トーテミズムにおいて神聖視された動物と同じくらい貴重な動物と見なされるべきではなかろうか。
しかし神聖視された動物があらゆる点で人間に有益であるとは言えない。たとえばネズミは、
崇
められると同時に嫌われる存在である。ネズミはあらゆるところに入りんで病気をもたらす厄介者であると考えられている。しかし同時にネズミは、機敏に動き回り、未知なる世界へ飛び出すプラスのイメージを持っている。
インド神話では、あらゆる障害を取り除くことのできる象の顔をしたガネーシャ神が、ネズミを乗り物としている。象は障害を押しのけ、ねずみはあらゆるところに忍び込む。それゆえガネーシャ神は、商人と泥棒の両方の守護神となっている。ギリシア神話の光と技芸の神アポロンも、はじめは病気を治すネズミの神だったとされる。
現代の医学では、ネズミは実験動物として人間の命を救うために死ぬ運命を背負っている。このように人々は、ある時は動物を保護し、ある時は有害なものとして遠ざける。それは人々が、動物に対して愛情と憎しみを同時に感じているからである。人間は、結局、人間中心的・利己的な願望に基づいて、有害な動物をも神聖視し神とするのである。
我々は、宗教が人間の問題(
需要
)に対してどのような
応
え(
供給
)を、有償ないしは無償で提供しているかという観点から、古代社会のアニミズムの働きを観察し分析している。これまで取り上げた人間の問題は、死の問題、命の問題(誕生の神秘)、幸福追求の問題(生け贄)があった。しかし人間の問題はこれだけに限られない。次に取り上げるのは、我々が生活を営むこの世界の由来の問題、すなわち世界の神秘である。これは、大まかに次の4つに整理されよう:
@
世界(この世)は、どこから来たのか(創造の問題)
A
世界(この世)は、どこへ行くのか(終末の問題)
B
来世(天国や地獄)は、どこにあるのか。
C
世界(宇宙)と人間はどのように関係するのか(占い・摂理)。
世界がどこへ向かい、来世はどこにあるのかという問題ABに対して、現代の諸宗教が提出する応えは、きわめて曖昧で、人間の空想や推測の域を出ない。しかしアニミズムの考え方では、その応えは明確である。世界は一つしかなく、来世もこの世界の内にある。すなわち、人間の来生はこの同じ世界のどこかで営まれる。世界という言葉の中に宇宙を含めると、天国は文字通り、
天上(宇宙)のどこかにあり、地獄も地下(宇宙)のどこかにある。
無数に存在する天地創造神話は、原初の
混沌
を秩序づけることから始まる点で共通している(原始混沌型)が、特異な創造神話は、「
宇宙卵
」に関する神話である(宇宙卵生型)。これは、普通の卵のように雄と雌の間で生まれたものではなく、神の言葉が造ったものである。たとえば、アフリカのドゴン族では、最高神アンマが初めて発した言葉がこの卵を造ったとされる。神の言葉が世界を形成した点で、ドゴン族の神話は、ユダヤ教とキリスト教の創造神話によく似ている。ただし、『旧約聖書』の創造神話は、原始混沌型の神話に分類される。以下に、『旧約聖書』の創造神話(創世記1,1~2,4)を以下に引用しておこう(番号・太字・下線・省略は筆者)。
@
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が
深淵
の表にあり、神の霊が水の
面
を動いていた。
A
神は言われた。「光あれ」。こうして、光があった。・・・第一の日である。
B
神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」。神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。・・・第二の日である。
C
神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ」。・・・第三の日である。
D
神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ」。そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。・・・第四の日である。
E
神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ」。・・・第五の日である。
F
神は言われた。「地は、それぞれの生き物を生み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれ生み出せ」。・・・。
G
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」。神はご自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。・・・第六の日である。
H
天地万物は完成された。第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。これが天地創造の由来である。
この創世記の言葉の端々(文中の下線部)に、アニミズム(物活論・精霊崇拝)の痕跡が見られる。すなわち万物は、神の言葉を聞き分ける生き物であるかのように描かれている。さらに、「産めよ、増えよ」(引用文の下線部)という言葉は、豊穣多産というアニミズムの重要な観念(豊饒多産の願望)を反映している。
これらの宗教の創造神話では、万物の創造に先立って創造神が先に存在することが前提にされている。しかし、神よりも先に卵が存在し、卵から先ず神が生まれたという神話もある。これは、宇宙卵生型の典型である:
中国の神話では、宇宙卵から
盤古
という神が生まれ、混沌から世界を形成したとされる(盤古神話)。「盤古」は、三国時代に[9]、呉の徐整の『三五略記』に初登場する。それによると:
まだ天地が分かれていないとき、宇宙は混沌とした卵のようだった。18000年経って、その中から盤古は生まれた。盤古は持っていた手斧で闇を打ち破った。陽の気を持った清いものは上昇して天となり、陰の気を持った
濁
ったものは下降して大地になった。盤古は天と地の間にいて、天地がもとに戻らないように支え続けた。盤古の身長は1日1丈ずつ伸び、それにつれて天は1日1丈ずつ高くなり、大地も同じだけ深くなった。18000年が過ぎて、盤古の身長は90000里(60300km)になったが、力尽きて死んでしまった。しかし天地は完全に分離して再び混沌に戻ることはなかったとされる。
タヒチの神話でも、タアロアという最高神が宇宙卵の殻を破って出現し、無数の生き物を作り出したという。『日本書紀』に見られる宇宙創造神話も、同様の観念を表しているが、中国の盤古神話の影響を受けて作成されたと言われている。以下に、『日本書紀』の一説を要約の形で紹介しよう:
昔、天地が未だ分かれず、陰陽も分かれていなかったとき、混沌(ぐるぐると回転して形状が定まらない様子)としている状態は
鶏子
(卵の中身)のようであり、ほのかに芽生えを含んでいた。その
澄
んだものはたなびいて天となり、重く
濁
ったものは積もって地となった。澄んだものはまとまりやすく、重く濁ったものは固まりにくかった。そこで、天がまず形成され、地はその後に定まった。
その後、神が生まれた。天地が作られた当初の有様は、大海に浅瀬が見え隠れするような状態であった。時に、天地の中に一つの物が生まれた。形は
葦
の芽のようであり、やがて神となった。クニノトコタチ尊という。次にクニノサツチ尊。次にトヨクムノ尊。全部で三神であった。
いずれにせよ、アニミズムは、「世界がどこから来たのか」という問題に対して、「世界は、神的な働きによって、
混沌
とした材料から作られた」と応えた――その混沌とした材料が、神より先に存在するか、神より後に存在するかは別にして。しかし憶測になるが、天地創造神話は、心理学的に意識と無意識との観点から解釈することができるかもしれない。
[1] 生き物を殺さないという掟(不殺生戒・アヒンサー)は、仏教徒の守るべき戒律(五戒)の一つである。
[2] 「犠牲祭」は、神の命令どおりに息子を捧げようとしたアブラハムの献身的行為を記念する単なる祝祭に過ぎない。
[3] 海中の岩の上に座って歌い、その歌に引き付けられた船乗りたちを殺した。英雄オデュッセウスがその歌声におびき寄せられなかったため、岩になったと伝えられる。
[4] クレタ王ミノスの妃パシファエと、白い雄牛の間に生まれたギリシア神話の怪物ミノタウロスは、工匠ダイダロスによって作られた迷宮ラビュリントスに閉じこめられ、毎年アテナイから送られてくる14人の少年少女を食べて生きていた。
[5] 水陸両棲の架空の動物で、口先がとがり、背には甲羅や鱗、手足には水かきがある。頭には少量の水の入る皿のようなくぼみがあり、その水がある限り陸上でも死なない。水中に他の動物を引き入れ、その生血を吸う。
[6] 旧約聖書の中でケルビムは、人間・ライオン・雄牛・鷲の4つの顔を持つ姿で登場する。すなわちケルビムには、人間のような知性、ライオンのような強さ、雄牛のような生殖力、鷲のような鋭敏さという驚くべき魔力が備わっている。ケルビムは完壁な番人として初めはエデンの園を、後にエルサレム神殿の入り口を守った。初期キリスト教会は、翼を持った王国の番人であるケルビムを上から2番目の天使と定めた(1番目はガブリエル)。
[7] Sigmund Freud(1856〜1939):オーストリアの精神分析学者。ヒステリーの研究から、無意識の存在を確信し、自由連想法を用いる精神分析の方法を発見、深層心理学を樹立した。諸書に「夢判断」「精神分析入門」などがある。
[8]
ボーイスカウト運動にこのようなトーテミズムが見られるのは、イギリスの作家R.キップリング(1865〜1936)の『ジャングル・ブック』に動物中心の考え方があったからである。この作品の中で、オオカミに育てられた少年モーグリは、森の動物たちから様々なことを学んでいく。この思想が、イギリスの軍人B.ポーエル卿(1857〜1941)に影響を与え、自然の中で少年たちに知識や技術を身に付けさせるボーイスカウト運動を生み出した。
[9] 後漢の滅亡後、魏・呉・蜀の三国が抗争した時代(AD220〜280)。