2018/12/07
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神の国を説くイエスの
公
の活動(公生活)は、ガリラヤ地方においてかなりの成功を収めた。しかし、その活動は、2〜3年しか続かなかった。それは、ユダヤ教の保守派が、ローマ帝国の権力を借りてイエスを亡き者にしようと謀ったからである。その理由は、イエスがユダヤ教の戒律を「愛の教え」に単純化し、保守的なユダヤ人の伝統墨守的な形式主義(偽善)を退けたことにある。このような彼の態度は、ユダヤ人の保守派の反発を買った。保守派から見れば、イエスは、モーセ以来の神の掟(律法)を踏みにじる不信仰者・
冒瀆
者であった。
『マタイによる福音書』第12章:
そのころ、ある
安息日
[1]にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「・・・安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。・・・人の子は安息日の主なのである」。
律法の厳格な順守を求める保守派の人たちは、イエスが安息日の規定を破ったと非難する。しかし、イエスにしてみれば、これも律法にかなったことであった。彼によれば、律法は人間の福利のためにあるのであって、人間が律法の奴隷なるべきではない。結局、イエスは、「
過越祭
[2]」(ペサハ)というユダヤ教の大祭で賑わうエルサレムにおいて、≪地上に新しい(神の)国を建設し、ローマ帝国からの独立を企てている≫という
偽
の告発によって、ローマ総督ポポンテオ・ピラトの法廷に引き出され、当時もっとも残酷な処刑方法とされる十字架刑(
磔刑
)に処された(A.D.30頃)。
当初、イエスを、
来
るべき王・ユダヤ民族の政治的解放者と見ていた弟子たちや民衆にとって、イエスの刑死はすべての終わりを意味した。イエスの弟子たちは、幻滅と落胆の内にエルサレムから逃げ、ガリラヤに退いた。しかし、驚くべきことが起きた。イエスの墓を訪れた女性の弟子たち(マグダラのマリアたち)は、墓が
空
なのを発見し、「復活した」イエスに出会ったのである。その後、復活したイエスは、その他の弟子たちにも現れた。このとき実際に何が起こったのか――イエスは本当に復活したのか、それとも死なずに生き延びたのか――、それは永遠に明かしえない歴史の秘密である。しかし、真相の
如何
に関わらず、イエス復活の信仰は、落胆した弟子たちに新しい力と希望を与えた[3]。復活の信仰に勇気づけられた弟子たちは、死(迫害)をも恐れず、イエスの教え、すなわちキリスト教を広めていった。キリスト教は、先ず地中海世界に「離散する」ユダヤ人の間に広められ、次いでローマ帝国全体に広まった。
生前から「神の子」と自認していたイエスは、復活後、信者たちの間で神格化され、信仰の対象に高められた(教祖の神格化)。しかし、このことは、キリスト教の思想界に大論争を呼び起こした。イエスによれば、神は唯一である。ところが、復活した神の子イエスも信仰の対象となり、父なる神とともに「神」となった:
@
「人の子」でもある人間イエスが、どうして不滅の神でもあるのか。
A
子なる神(イエス)と父なる神(ヤーウェ)という2人の神の存在と、神の唯一性を、どう両立させるか。
これらの論点をめぐる論争は、およそ450年も続き、いわゆる「正統と異端」が形成された。前者の問題は、キリスト論と呼ばれる。後者の問題は、後に「聖霊も神であるか」という問題とも
絡
み、
三位
一体論
と呼ばれるようになった。
なぜキリスト教は、最初にユダヤ人の間に広まったのだろうか。それは、ユダヤ教の一分派として出発したからである。実際、初期のキリスト教徒とは、他のユダヤ教徒と同様に、ユダヤ教の戒律を守り、エルサレムの神殿に上り、ユダヤ教と同じ神(ヤーウェ)を礼拝した。ユダヤ教と外面的に区別されることのなかった初期のキリスト教は、ユダヤ・キリスト教と呼ばれる。
しかし、初期のキリスト教は、外面的にはユダヤ教と区別されなくても、その行動に与えた意味内容は、当然、異なっていた。たとえば、キリスト教には、洗礼と
聖餐
(聖なる食事)というキリストが定めたとされる儀式がある。しかし、それらの儀式は、元々、ユダヤ教にあったものである。ユダヤ教では洗礼は、罪を悔いた人が、その都度、清い水によって罪を洗い清めてもらう儀式である。聖餐は、かつてユダヤ人たちがモーセに
率
いられてエジプトから「脱出」したことを記念して行う
厳
かな会食の儀式である。しかしキリスト教では、洗礼はそれまでの罪を悔い改め、キリスト教徒になるために「ただ一度だけ」行われる入信の儀式である。聖餐は、キリストの受難と復活を記念する祭儀(ミサ)になった。
しかし初期キリスト教は、ユダヤ人の間に留まっていたわけではない。既に指摘したとおり、イエス・キリストの教えは、ユダヤ人の民族的制約を超える普遍性を帯びていた。イエスの教えが含む普遍性を人々に気づかせ、キリスト教に、民族の枠に
囚
われない世界宗教へと決定的に歩ませたのは、「使徒たちの頭」と呼ばれるペトロと、「異邦人の使徒[4]」を自認するパウロである。民族宗教から世界宗教への脱却は、自覚的に行なわれた。その
経緯
は、イエスの直接の弟子(使徒)たちの功績を伝える『使徒言行録』第15章の「エルサレム会議」に書き記されている:
ファリサイ派(保守的なユダヤ人の宗派)から信者になった人が数名立って、「異邦人(非ユダヤ教徒)にも
割礼
を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために(エルサレムに)集まった。議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「・・・神は、私たち(割礼を受けたユダヤ人)に与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられた・・・。また、彼らの心を信仰によって清め、私たちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした」。
こうして、この会議の最長老と考えられるヤコブ[5]は、次のような提案をし、出席者の賛同を得た:
ヤコブが答えた。「・・・私はこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです」。
最後の一文から初期キリスト教徒は、ユダヤ教徒と同じ戒律(モーセの律法)を順守していることが分かる。ユダヤ教の戒律では、
割礼
の拒否は本来死刑に値する。しかし、この「エルサレム会議」によって、割礼の規定は免除された。さらに、「異邦人の使徒」パウロは、この「エルサレム会議」の決定を法的に裏付けるかのように、新たな律法解釈を提示する。パウロによると、割礼は体に施すもの(肉的な律法)ではなく、心に施すもの(霊的な律法)なのである。パウロは、『ローマの信徒への手紙』第2章で次のように書いている:
外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人であるものこそユダヤ人であり、文字ではなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。
こうしてキリスト教は、肉体的な割礼を強要するユダヤ教の狭い民族的制約から解放され、ユダヤ人以外の人たちにも受け入れやすいものとなり、エルサレム以外の諸都市、すなわちアンティオキア[6]、アレクサンドリア、ローマなどの「大都市」ヘと伝えられた。これらの都市はいずれも、当時のローマ帝国の屈指の政治的商業的中心地であった。これらの都市には、祖国を離れた離散(ディアスポラ)のユダヤ人が居住し[7]、民族的団結を維持するためにユダヤ教の
会堂
(集会所)が建設された。キリスト教は、上述のように多分にユダヤ教的要素を含んでいたため、本国の保守的なユダヤ教の統制のあまり及ばないこれら諸都市のユダヤ人層に広まり、彼らを通して、「異邦人改宗者」を増やしていった。彼らは、ユダヤ教の儀礼をモデルに集会し、礼拝(賛美・説教・聖餐など)を行なった。やがてキリスト者は、イエス・キリストを拒否したユダヤ教と決別し、自分たちこそ「神によって選び出された者」と自認し、自分たちの集会を、当時の文化言語であったギリシア語で「エックレ−シア」(ecclesia教会)――神によって呼び出されたもの――と呼んだ。
人間イエスを、来るべきメシア(キリスト・救い主)と見なし、ユダヤ教の一分派として発足したキリスト教は、ユダヤ教から多くのもの(聖典や祭式)を借り受けながら、次第に独自の道を歩み始めた。すなわち、キリスト教は、ユダヤ民族に限られた民族宗教から、人類の世界宗教へと歩み出した。しかし教会は、この発展の過程で、新しい課題に直面した。それは、諸国に広がった諸教会を統括する組織と統一的な教義の確立という課題である。
一般的に言えば、これはあらゆる宗教集団が、いつかは解決を迫られる問題である。というのは、いかなる団体も、その存続のためには、権威と組織を必要とするからである。すべての改革運動が、その成功とともに鋭さや活力を失い、保守的傾向を現わすのは、実に、こうした内的必然性による。キリスト教の発展においても、同様の推移が認められる。その成立の当初、キリスト教信仰は多分に熱狂的であった[8]。教会は主としてイエスの1代目の弟子、すなわち使徒たちの献身的な熱意に支えられていた。しかし、時代が下り2世紀の前半になると、教会生活の各分野に固定化・保守化の傾向が現れ始めた。この傾向は、(1)信仰箇条の決定、(2)正典の制定、(3)
教職制度
の成立(組織化)に現れている。
なお、これらの傾向が現われる以前(A.D.130〜140頃まで)の教会は、原始キリスト教と呼ばれ、それ以後、教会の東西分裂(A.D.1054)までの教会は、(現在のローマ・カトリック教会と区別して)古カトリック教会と呼ばれる。
(1) 信仰箇条の決定
統一的な信仰箇条の決定を動機づけたのは、イエス・キリストの教えを異なって解釈する人たち(異端者)の出現である。いわゆる正統と異端の対立の焦点になったのは、人間イエスはどのような意味で神の子(という神)であるのか(キリスト論)、および、父なる神と子なる神(キリスト)との関係をどのように捉えるか(三位一体論)という問題であった。
初期キリスト教における最大の異端は、グノーシス主義(gnosticism)[9]と呼ばれるものである。この派は、『旧約聖書』を残酷な記述を含むものとして退け、『新約聖書』の一部のみを正典とし、神の子キリストの出現は見かけだけのものに過ぎない(Docetismキリスト仮現説)――神の子キリストは人間として生まれたように見えるだけで、実際には神の身分のままであった――として、キリストの
人性
(humanity)を否定した[10]。その他、アリウス派、ネストリオス派、単性論派などの「分派」――「正統派」から見れば「異端」――が生じたが、それらの詳細には立ち入ることはできない。
これらの異端(反主流派)の出現を背景にして、原始教会(主流派)は、
万人
がキリストの真正な教えと認めることのできる正統的な信仰内容(信仰箇条regula
fidei / canon)を確定し、その信仰の根拠としての正典(正しい経典)を確定した。信仰箇条は、数々の異端の出現に対処する形で、必要に応じて改定された。その代表的なものは、325年に小アジアのニカイア(現トルコのイズニク)で開催された全教会会議(第1回公会議)で採決されたニカイア信教と呼ばれものである。これは、現在、ローマ・カトリック教会、東方教会(ギリシア正教会、ロシア正教会など)、プロテスタント諸教会が一致して採用している最も古い信仰箇条である。これは、神、キリスト、聖霊に関する3ヶ条からなるが、特にキリストについての第2条に重きを置き、その
神性
(divinity)と
人性
(humanity)とを同時に強調している(聖霊の神性はまだ議論されなかった):
我は、唯一の神を信じる。
@全能なる父、あらゆる目に見えるものと見えないものの創造主を信じる。
A唯一の主イエス・キリストを信じる。彼は神の子、父なる神からただひとり生まれた、すなわち父なる神の実体、神よりの神、光よりの光、真実の神よりの真実の神、造られたのではなく、生まれた存在で、父なる神と不可分で、天にあるものと地にあるものすべてを造り、我々人間のために、我々の救済のために、この世に降り、受肉して人間となり、苦しみを受けて、3日目に復活し、天に昇り、生きている者と死んだ者を裁きにやって来る。
B聖霊を信じる。
(2) 正典の制定
信仰箇条の根拠としての正典に関していえば、キリストの教えを記した『新約聖書』に属する文書は、地域ごとに異なっていた。しかし2世紀のロ−マ教会で現在の『新約聖書』の大部分が認められ、4世紀に至って全教会的に新約聖書の文書は、27書であることが公認されるようになった[11]。とはいえ、ユダヤ教の正典ともなっている『旧約聖書』に関しては、現在でも、特に旧教と新教との間で、意見の一致が見られない。参考までに新約聖書の正典目録(27書)を列挙しておく:
マタイによる福音、マルコによる福音、ルカによる福音、ヨハネによる福音 使徒言行録、ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙T、コリントの信徒への手紙U、ガラテヤの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙T、テサロニケの信徒への手紙U、テモテへの手紙T、テモテへの手紙U、テトスへの手紙、フィレモンへの手紙、ヘブライ人への手紙、ヤコブの手紙、ペトロの手紙T、ペトロの手紙U、ヨハネの手紙T、ヨハネの手紙U、ヨハネの手紙V、ユダの手紙、ヨハネの黙示録
(3)
教職制度
(教会位階制)の成立(組織化)
このような教義と正典の確定と並んで、諸教会の信徒を教え導く責任者(聖職者)の地位と役割が確定した。彼らは大きく分けて三つの身分――監督(司教)、長老(司祭)、執事(助祭)――に分かれた。これらの職能は、新約聖書などの1世紀の文献には、はっきりと言及されてない。しかしそれは、2世紀に入ると、ほぼ似たような形で各地の教会に成立していたことが知られている[12]。司教は、キリストの直接の弟子である使徒の権威に訴え、「使徒の後継者」として所定の地域の諸教会を統括し、その権限を次代の司教に伝えた。地域ごとの諸教会を管轄する司教の威信と権威は、時代とともに高まった。特にローマ帝国の主要都市に置かれた司教、すなわちローマ、コンスタンティノポリス、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムの司教は、宗教的な影響力ばかりでなく、政治的な影響力さえ持ち、特別に大司教と呼ばれた。司教の役目は幾つかの教会を統括する各地域の最高責任者であり、司祭は任地の教会の最高責任者、助祭は司教の補佐役で、雑務をこなした。ミサ(キリストの死と復活を記念する祭儀)を司式するのは、司教と司祭だけである。
[1]
神が天地創造を始めてから7日目に休息したという『創世記』(旧約聖書)に基づき、一週の第7日に与えた名称。金曜日の日没から土曜日の日没まで。その間、人々は「仕事」を休むが、この「仕事」の解釈をめぐって幾多の論争が行われた。
[2]
「過越祭」(ペサハ)は、「五旬祭」(七週の祭・シャブオット)、「仮庵祭」(スコット)と並ぶユダヤ教の三大祝日の一。
[3]
キリストの弟子を自認するパウロは、『コリントの信徒への手紙1』第15章で、「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」と述べている。
[4]
ロマ書1:16、コリント前書1:24、ガラテヤ書3:28などを参照。なお、「使徒」(apostle)とは、「遣わされた者」というのが原義。「異邦人」(foreigner)とは、ユダヤ人が神の選民であるという誇りから、非ユダヤ教徒をさして呼んだ言葉である。
[5]
イエスの兄弟(父ヨセフの連れ子?マリアの子?)または従兄とされるエルサレム教会の指導者。
[6]
アンティオキアは、異邦人伝道の中心をなしていた。信徒たちが「キリスト教徒」(クリスチアーノス)と初めて呼ばれたは、この町であったとされる(『使徒言行録』11:26)。
[7]
土地を持たない外国人が異郷の地で財をなす最良の手段は、商工業(金融業)に従事することである。
[8]
たとえば、エルサレムにおける「聖霊降臨」(『使徒言行録』2:1以下)。
[9]
グノーシス主義には、諸派がある。一般的特徴として、次の項目が挙げられる:(1)
最高の霊である神は、一連の霊的世界(アイオーン)を流出した。この現実世界は、神に由来する下級の霊によって創造された。(2)
人間の魂は、霊界から堕落して肉体に閉込められており、禁欲によって再び神の認識(グノーシス)に至るべきである。(3)
キリストは神の子であるから、汚れた肉体に閉じ込められることはあり得ず、歴史的イエスは単なる仮現(幻想)にすぎない。
[10]
『新約聖書』の中の後期の文書(『ヨハネの第一の手紙』4:3)には、既に、この種の異端に対する警告が見出される。ちなみに、2006年に公表された2世紀半ばに遡る『ユダの福音書』(コプト語訳写本)も、この派の手になるものである。
[11]
東方ではアレクサンドリア司教アタナシオス(296〜373)が現在の27巻を受け入れ、西方では北アフリカの第3カルタゴ教会会議(397)が27巻を『新約聖書』の文書として確定した。
[12]
初期には、この他、各地の教会に、「預言者」や「教師」と呼ばれるカリスマ的人間が滞在ないし遍歴していた。しかし、彼らは、教会位階制が整備されるにつれて公から姿を消した。