比較宗教学

2018/12/07


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第7章 キリスト教

 教会とローマ帝国

ユダヤ教の民族的特殊性を捨て、人類全体に開かれた世界宗教へと歩み出したキリスト教は、まずローマ帝国と結び付き、西ヨーロッパに広まった。当初キリスト教は、ユダヤ教と同じく、他の神々の崇拝を禁じていたため、皇帝崇拝を強要していたローマ帝国から迫害された[1]。しかし、迫害を恐れず神のための殉教を賛美する初期のキリスト教徒にとって、ローマ帝国による迫害は、逆に彼らを勇気づけ、キリスト教を帝国内に広める結果となった。やがてローマ帝国は、増大し続けるキリスト教徒を敵に回すことはできず、キリスト教を公認(コンスタンティヌス帝のミラノ勅令313)、遂にはキリスト教を国教とし、キリスト教以外の諸宗教を禁止するに至った(393年、テオドシウス大帝)その目的は、キリスト教を利用して人心を一つにし、帝国の統治の安定を ( はか ) ることであった

 東西教会の分離

しかし、キリスト教がローマ帝国の国教となり、地中海世界とヨーロッパに広まったとはいえ、それは一枚岩ではなかった。民族や言語が違えば考え方や文化も違うように、文化現象としてのキリスト教も、それを迎え入れる民族や支配者の欲求に応じてさまざまに解釈され、変容した。この、いわばキリスト教の地方分権化の傾向は、テオドシウス大帝の死後(395)、ローマ帝国が東西に分割されたことによって強められ、遂に、キリスト教会(古カトリック教会)は、ローマを首都とする西ローマ帝国の教会(西方教会)と、コンスタンチノープル[2]を首都とする東ローマ帝国の教会(東方教会)とに分裂した(1054)。更に、この地方分権化の傾向は、東西の分裂だけでは収まらず、16世紀の宗教改革に至り、プロテスタント諸教会(諸派)――これらは旧教(西方教会と東方教会)と区別して新教と総称される――をもたらした。以下に、おもな教会・教派の特徴を略述する。

 キリスト教諸派

 () 東方教会(正教会)・・・東ローマ帝国ではギリシア語が公用語であったため、東方教会では、当初、そのギリシア語が教会用語(典礼用語)とされた。東方教会の名目上の最高指導者は、コンスタンチノープル教会の主教(コンスタンチノープル総主教archbishop of Constantinople/世界総主教oecumenical Patriarch)である[3]。現在、東方教会は、ギリシア正教会、ロシア正教会、アルメニア正教会などに分立し、各国の国語を典礼用語として採用するようになった。日本には、1861年にロシア正教会のニコライ大主教によってもたらされ、現在、日本ハリストス正教会(日本正教会/聖自治日本正教会)として知られている[4]。東方教会(正教会)の特徴は次の通り

@        東ローマ帝国の国教として存続したが、コンスタンチノープル総主教は、宗教上の独立を保つことができず、東ローマ皇帝に従属した東方教会(ビザンチン教会)は、国家機構の一部のごとき観を呈し、皇帝が事実上の最高指導者(首長)になった。このような仕組みは、皇帝教皇主義(Caesaropapism)と呼ばれている。したがって形式的には、総主教の宗教的権威は認められていたが、その実権は東ローマ皇帝(ビザンチン帝国皇帝)が握っていた。しかし、それが幸いしてか、各地の主教は、総主教に対し独立して行動することができた。コンスタンチノープルの総主教は、名義上は東方教会の代表者であるが、実質的には他の多くの主教たちの一人に過ぎない。

A        司祭と助祭の 妻帯 ( さいたい ) は認められているが主教(司教)の妻帯は禁じられている

B        東方のキリスト教にとって重大な脅威は、7世紀に、アラビアから起こったイスラームの勢力である。その進出の結果、初期キリスト教の拠点であったエルサレム、アレクサンドリア、アンティオキアは、早くからその支配下に置かれた。コンスタンチノープルも、1453年に、イスラームのオスマン・トルコに占領された。その後、東方教会の実質的な指導権は、ロシア正教会(モスクワ総主教)の手に移った。しかしそれも、1917年のロシア革命によって大打撃を受けた。しかし、1991年のソビエト連邦崩壊後、ロシア正教会は急速に復興している。

C        東方教会は、原始教会以来の宗教的伝統を忠実に守りつつ(伝統主義)儀式や芸術において神秘的な傾向を増していった。そうした傾向をよく表すのが、教会内に数多く飾られた神秘的な聖画像(イコン)[5]典礼(儀式)、および大主教グレゴリオス・パラマス(12961359)の「神の造られざるエネルゲイア(働き)」という教説である

() 西方教会(カトリック教会)・・・西ローマ帝国ではラテン語が公用語であったため、現在でもラテン語が、正式な教会用語(典礼用語)となっている――アラビア語がイスラームの正式な典礼用語であるのと同じように。カトリックという名称は、元来、「普遍的」という意味である。この言葉は、教会が東西に分裂する以前に、異端に対する「正統」という意味で全教会で使われていた。しかし、1054年に教会が東西に分裂し相互に破門して以来、ローマ教会の指針に従う諸教会(西方教会)は、自派こそ全世界に通用する普遍的な教えを持つ教会であると主張したことから、(ローマ・)カトリック教会と自称するようになった。日本では、かつて天主公教会と呼ばれたが、カトリック教会という言葉が通用している。これに対して東方教会は、自分たちこそ使徒伝来の正統的な教義を受け継いでいるとして、オーソドックス教会(正教会)と自称している。カトリック教会のおもな特徴は、次の通りである

@        ローマ教会の司教(教皇・法王Papa)を最高指導者とし[6]カトリック教会のすべての信徒と聖職者は道徳と宗教に関してローマ教皇に従わなければならないとされる。ローマ教皇は、現在、バチカン宮殿に住んでいる。

A        ローマ教皇は、西ローマ帝国(395476)の滅亡後[7]、西ローマ皇帝に代わって西ヨーロッパ諸国に君臨し、永遠の都ローマの司教使徒たちの ( かしら ) ペテロの後継者(ペテロによって創立されたローマの教会の司教)地上におけるキリストの代理[8]として、道徳と宗教に関して全世界の人々を指導する権利を有すると主張している。特に12世紀頃のヨーロッパ中世においては、カトリック教会は、世俗の国家権力をもその支配下に置くほどの力を持ち、一個の封建領主として広大な教会領(ローマ教皇領)[9]を保有した。こうして中世ヨーロッパ(5C15C)では、カトリック教会の宗教的権威は世俗的権威の上に置かれ、西ヨーロッパ諸国の君主は、ローマ教皇――特にイノケンティウス3ボニファティウス8世――に従属することになった中世ローマ・カトリック教会は、皇帝への従属から脱しなかった東方教会の皇帝教皇主義(国家教会主義)とは逆の類型――教会国家主義を示していた。また、その強い統制力は、ゲルマン民族の大移動(4C末〜6C中頃)によって混乱したヨーロッパを文化的に統一するのに貢献した(教会は古代文化の継承者)

B        聖職者(司教、司祭、助祭)は、特例を除き独身である[10]。しかし、20世紀末から司祭数の激減が深刻化し、初期にあった終身助祭制度を復活させ、終身助祭に限って妻帯を認めた

() プロテスタント諸教会(諸派)・・・キリスト教の歴史において近世の始めを画する最大の事件は、言うまでもなく宗教改革Reformation(1517)である。宗教改革は、16世紀初めに、それが勃発するやいなや、西ヨーロッパに瞬く間に広がったが、その前兆はすでに早くから見られた14世紀のイギリスにおけるウィクリフ(132884)や、その影響を受けたボヘミヤのフス(13691415)の反乱などの反教皇的な動きがそれである。さらに西ヨーロッパの諸教会では、各地の教会の自立を目指す地方分権的な司教主義の考え方[11]が広まっていたこのように爆発寸前にあった反ローマ教皇的気運に口火をつけたのが、ドイツのマルティン・ルター[12]であった

@      ルター派:1517年のマルチン・ルターの考え(後述)に賛同する人たちの教会。

A      改革派(カルヴィン派・カルバン派)ルターの改革に刺激されてジャン・カルヴィン[13](150964)スイスで起こした改革に由来する教派

B      英国国教会:イギリスの諸教会がローマ教皇の統制から独立して成立した教会。その独立は、純粋に宗教的な理由によるものではなく、イギリス王室の私事(ヘンリー8[14]の離婚問題)にからむ教皇との政治紛争に起因する。それゆえ、英国国教会は、教会制度や信仰内容に、カトリック的要素を多く残している(教義はプロテスタント的、祭式はカトリック的)

C      その他の教派英国におけるジョン・ウェスレー(170391)の始めたメソディスト派(英国国教会から分離)宗教改革時代の再洗派[15]に由来するバプテスト派スコットランドの長老派[16]組合派[17](ともにカルヴィン主義系)フレンド派[18]キリスト教の伝統的教義である三位一体論を認めないユニテリアン(主義)[19]もある。

これらのプロテスタント諸派は、ルターの考え方を原点にしているので、彼の考える教会観を若干紹介しておこう。ルターは、ドイツのある大司教がバチカンのサンピエトロ寺院の建築を名目に 贖宥状 ( しょくゆうじょう ) [20]を販売し、私腹を肥やしていたことを批判し、1517年に『95ヶ条の意見書(提題)』を発表した。当初、ルターは、カトリック教会から離れる意図を持たなかった。しかし、 贖宥状 ( しょくゆうじょう ) をめぐる論争を通じて

@     人が救われるのは内的な信仰によるのであり、儀礼や善行( 贖宥状 ( しょくゆうじょう ) の購入)などによるのではない

⇒ 「信仰のみによりて(sola fide):信仰主義

A     キリスト教信仰の根拠は神の言としての聖書の中にあり、後世の伝統の中にはない

⇒ 「聖書のみによりて(sola scriptura):聖書主義(聖書に基づかない制度や儀式の拒否)

という改革の根本原理の自覚に到達した。これらはいずれも、極端に押し進めれば、当時の教会制度の根底を ( くつがえ ) すに足る革命的な原理であった[21]。事実ルターは、この自覚に基づき、カトリックの司祭制度や教皇制を否定し、「すべての信徒が司祭(聖職者)である( 万人 ( ばんにん ) 司祭職 ( しさいしょく ) )とし、聖職者と一般信徒との身分上の優劣を否定した

これらのプロテスタント諸派は、新教と総称され、社会事業伝道に力を ( そそ ) ぐことにより、時代の要求に応えた。特に、伝統的な教会制度の歴史がなく、したがって既成宗教による妨害のないアメリカ大陸において大きな発展を遂げ教派主義(denominationalism)と呼ぶ特異な形態を持つに至った。

 反宗教改革・対抗改革Couter Refomation

ルターに始まる宗教改革に対して、ローマ・カトリック教会は、プロテスタント勢力の拡大を黙って見過ごしていたわけではない。ローマ・カトリック教会は、宗教改革に対抗し、 綱紀 ( こうき ) 粛清 ( しゅくせい ) 、カトリック教会からの信者の離反の阻止、勢力の挽回と拡大を図った

カトリック教会の最高指導者ローマ教皇は、リエント公会議(154663)を召集し、教義・制度を改め、地理上の発見に沸くスペインの政治力と経済力を背景にして、西ヨーロッパでの失地の回復と世界宣教(教勢の拡大)に乗り出した。こうした対抗改革を強力に推進したのが、修道会(order)ないしは宣教会(gongregation)と呼ばれる独身の献身的な信徒集団であった。それらの集団で特に力があったのは、「ドミニコ会[22]」、「フランシスコ会[23]」、および、イグナチウス・デ・ロヨラ[24]らの創立した「イエズス会」である。このイエズス会の創立者の一人が、あのフランシスコ・ザビエルである[25]対抗改革は、暴力を是認するものではなかったが、世俗的な利害関係(非宗教的な欲望)とも ( から ) み、ヨーロッパ各地に、ほぼ1世紀にわたる理不尽な宗教紛争を引き起こした。このような紛争が ( ようや ) 政治的に収まったのは、中部ヨーロッパではウェストファリア条約(1648)英国では名誉革命(1688)フランスではナントの勅令の廃止(1685)以後のことである。このようにして、カトリック教会とプロテスタント諸教会の共存が政治的に認められた。

 修道生活と修道院――Imitatio Christiイミターチオー・クリスティー

教会の歴史を略述してきた。ところで、しばしば話題に上る修道院や修道生活とは、どのようなものであろうか。以下では、旧教(カトリック教会と正教会)に限って、話を進めることにする。なぜならプロテスタント諸教会(新教)には、ここで取り扱う信仰生活、すなわち、旧教的な意味での修道生活(religious life)は、原則として見出されないからである。

修道生活とは、神と人類のために、一生涯あるいは一定期間、独身を守り、祈りと労働(慈善事業)に従事する生活である。そのような生活をする者は、修道者( 修道士 ( ブラザー ) 修道女 ( シスター ) )と言われる。他方、そうした修道者が一定の規律(清貧・ 貞潔 ( ていけつ ) ・従順など)の下に共同生活をする場は、「修道院(monastery)あるいは単に「(祈りの)(house / residence)と呼ばれる。

それゆえ教会は、敬虔で品行方正な信者の集まりであるべきだが、現実の教会は、聖と俗、すなわち、禁欲的修道生活一般信徒の生活の両極端から成っている。すなわち現実の教会は、大別して2種類の宗教生活を包含している:

@     一般信徒の信仰生活:彼らの間では、聖母・聖人・聖遺物への崇敬[26]など、 多神教 ( アニミズム ) 的な習慣が発達した

A     修道者の信仰生活:彼らは、厳格な規律の下に高度に禁欲的な生活をした

ここで注目しなければならないのは、(なる生活)と俗(なる生活)という二種の信仰生活が、同一の教会内で共存していることである。信仰生活のこのような二重構造は、イエス・キリストの教えそのものに明示的に定められたものではなく、教会そのものの歴史的な形成過程に起因する

古代のローマ帝国内でキリスト教が広まったとき、キリスト教徒は、敵意に満ちた環境の中でみずからの生存権を主張しなければならない少数派であった。そうした条件下では、キリスト教徒たちが密度の高い等質的な信仰生活、要するに緊張に満ちた生活を維持することはさして困難なことではない。なぜなら迫害下のキリスト教徒は、死と隣り合わせの生活を強いられていたからである。

しかし、教会が公認され(313)、迫害がやみ、国教化され(393)、すべてのローマ市民にキリスト教が強要されると、密度の高い等質的な信仰生活はもはや維持することが難しくなる。そこでは、形式的にのみキリスト教徒と呼ばれつつ、実質的には少しもその精神()を実践しないような民衆の流入は避けられない。教会は、時として生命の危険を冒してでも信仰を選び取った人びとの一種の宗教的エリートの特殊集団から、社会の全員が自動的にその成員になってしまう大衆宗教へと変質した。特にこの変質は、キリスト教の初期から行なわれていた幼児洗礼という習慣によって加速された。キリスト教徒になるには、洗礼という儀式が必要だが、カトリック教会と正教会では、自発的な同意の確認できない新生児に洗礼を施し、キリスト教徒に仕立て上げることができた――もちろん保護者は、幼児にキリスト教教育をする義務を負わされている。なお、カトリック・ミッションスクールの第一の使命は、カトリックの子弟の宗教教育にある

このようなエリート集団としての教会から大衆宗教への変化が始まりかけた頃に、修道生活が始まり、修道院が建設された。これはすなわち、修道生活の発生は、権力の座について次第に世俗化した教会への反動であり、初期の信徒たちの英雄的殉教の熱意を、形を変えて受け継ぐものであったということを意味する

修道生活は、教会が東西に分裂する以前のエジプトやシリアなどの乾燥地帯で、世を捨て若干の手仕事や 喜捨 ( きしゃ ) (在家信者からのお 布施 ( ふせ ) )に頼りながら、祈り[27] 瞑想 ( めいそう ) [28]とに専念する 隠遁者 ( いんとんしゃ ) (世捨て人)の信仰生活として始まった。その代表的人物は、半ば伝説化された4世紀の聖者アントニウスAntonius(251356)パコミウスPachomius(290頃〜346)であった。東方(教会)におけるこうした動きは、キリスト教成立以前の東方の禁欲的な諸宗教の影響や、肉体的なものよりも精神的なものに価値を置くヘレニズム文化の影響の下に成立したと推測される。やがてベネディクトBenedictus(480ca543)529年頃にイタリアのモンテ・カシノに修道院(ベネディクト会)を開くと、修道生活は西方世界にも知られ、普及するようになった。彼の定めた「戒律」は、清貧・貞潔(純潔)・従順という、いわゆる福音的勧告(consilia evangelica) 遵守 ( じゅんしゅ ) を修道者に義務づけている。ベネディクトの戒律が、以後、西欧に成立した修道院の戒律の原型になった。その 神髄 ( しんずい ) は、「祈りかつ働け(ora et labora)という 標語 ( モットー ) に集約される。修道士たちは世俗から身を引き、修道院長の指導の下に、修道院に閉じこもり(一所定住)、一生を祈りと労働に捧げることを美徳とした(観想修道会)さらに、知的な労働(教育、研究、芸術)や諸種の慈善事業を通して、キリスト教の立場からさまざまな社会的要求に応える(活動)修道会宣教会(congregation)という団体も発生したしかしながら現代では、国家や一般の福祉団体がこれらの事業を代行するようになったため、慈善事業の 先駆者 ( パイオニア ) であった(活動)修道会や宣教会の存在意義が問われている



[1] ネロ帝による大迫害(A.D.64)、ドミティアヌス帝、トラヤヌス帝、ハドリアヌス帝、マルクス・アウレリウス帝、ヴァレリアヌス帝、ディオクレティアヌス帝による迫害がよく知られている。

[2] 「コンスタンティヌスの都」の意。330年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世がここに遷都し、ラテン名ビザンチウムから改名した。さらに1930年に、イスタンブールと改称された。現在、そこには、東方教会のかつての大聖堂、聖ソフィア大聖堂(ハギア・ソフィア)がイスラームのモスク(アヤ・ソフィア博物館)として建っている。

[3] 現在のコンスタンチノープル総主教は、バルトロメオス1(270)である。

[4] コンスタンチノープル総主教座:http://www.ec-patr.gr/ 日本正教会:http://www2.gol.com/users/ocj/

[5] 日本人最初のイコン作者(聖像画家)として山下りん(18571939)が知られ、日本の正教会に多くのイコンを遺した。

[6] 現在のローマ教皇は、ベネディクト16(ドイツ人)である(265)。先代はヨハネ・パウロ2(ポーランド人)

[7] ゲルマン人の侵入・定着などによって衰微し、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルに滅ぼされた。

[8] ローマ教皇が、ペテロを通じて、キリストから教会統治の最終的な決定権(首位権)を与えられているという主張の根拠として引用されるのは、マタイによる福音16:1719である(すでに2世紀のテルトリアヌスがこの句に言及している)

イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロわたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる 陰府 ( よみ ) の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。

プロテスタントの学者の中には、この句を後世の挿入とみる者もある。なお、教皇の首位権の思想は、理論的には、1870年の第1ヴァチカン公会議で採択された「教皇無誤謬」のドグマ(教義)によって完結をみた。これは、カトリック教会内に当初から現われていた中央集権的傾向の到達点をなすものである。

[9] こうした要求を正当化するために、「コンスタンティヌス寄進状」(8C) や、「イシドルス偽書」 (9C) が偽作された。イタリアのローマ市内にある世界最小の主権国家・バチカン市国は、れっきとしたローマ教皇領である。

[10] 聖職者の独身制は、キリストの定めたものではなく、禁欲的な修道生活の発達(後述)とともに教会に広まった。聖職者の独身制は、制度としては300年頃にスペインで開かれたエルビラ教会会議(グラナダの近く)で決定されたのが最初である。それがカトリック教会全体で制度化されたのは、1119(12世紀)にイタリアで開かれた第1ラテラン公会議(9回公会議)によってである。

[11] ローマ司教(教皇)は、他の司教に優越せず、あまたの司教の一人に過ぎないとする考え方。

[12] Martin Luther(14831546):ドイツの宗教改革者。ルター派教会の創始者。アウグスティヌス修道会の修道士(司祭)から、ウイッテンベルク大学教授となり、1517年、 贖宥 ( しょくゆう ) 状の発行を批判する95ヶ条の意見書を発表して宗教改革の口火を切った。ローマ教教皇庁との論争した後、破門されたが、ザクセン選帝侯の保護の下に抵抗を続けた。

[13] Jean Calvin(150964):フランスの宗教改革者。カルバン派(改革派)の祖。スイスのジュネーブで宗教改革を遂行し、一般市民にまで及ぶ一種の神権政治を行なった。聖書を、教義における最高の権威と認め、神の絶対主権を強調しつつ、勤労と蓄財を進め、近代資本主義社会の成立に大きな影響を与えた。主著はキリスト教綱要

[14] イギリス国王(在位150947)。英国国教会の創始者。王妃との離婚問題を契機にローマ教会から離れ、1534年の首長令で英国教会の首長となった。

[15] 教会は、意識的に信仰を告白する者の集まりであるから、小児洗礼は無効であるとし、成人の再洗礼を要求した派。

[16] Presbyterian Churchの訳語。カルヴィンの神学説に基づいたもので、信者から選出した長老の団体が、牧師とともに教会の秩序維持にあたる。1567年にスコットランドの国教となった。

[17] Congregationes:「ともに集まる者たちの集団(集会)」に由来する。個々の教会は独自の原則に立って相互の交わりを重んじるが、上からの支配を否定し、国家からの分離を主張する。

[18] Society of Friendsの訳語。17世紀半ばにイギリスでジョージ・フォックスを祖として起こったキリスト教の一派。神から直接的に啓示を受けることができると説き、絶対平和主義を主張した。この派の人々は、「クウェーカー」(Quaker)とも俗称される。この俗称は、宗教的に感激し体を震わせる(quake)女性信者がいたことに由来する。

[19] Unitarian:キリスト教の教義の中心である三位一体論(父なる神、子なる神、聖霊なる神は、三にして一である)に反対し、神の単一性を主張して(父なる神だけを認め)、イエス・キリストの神性を否定する教派。

[20] 中世のローマ・カトリック教会が、罪の ( つぐな ) いが軽減されるとして信者に販売した証書。1517年にドイツのアルブレヒト大司教が自己の野望を満たすために贖宥状を濫発したことが、ルターを憤らせた。

[21] 宗教改革は、様々な政治的・経済的・宗教的な動機(欲求)の交錯から生じた事件であり、その発生をいずれか特定の原因にのみ帰すことはできない。さらに、これらの原理も、詳しく見れば、多義的であることに注意しなくてはならない。たとえば「信仰のみによりて」の立場は、個人主義的な意味をも有しうるものではあるが、個人の信仰の自由を主張したものでない。さらに、「カトリック教会の伝統(聖伝)」を斥け、聖書それ自体に戻ろうとする「聖書主義」にしても、その聖書を生んだのが原始教会の「伝承」であることを考えると、自已矛盾を含んでいるのは明らかである。

[22] ドミニコ会は1206年にドミニクス・デ・グスマンにより立てられ1216にローマ教皇ホノリウス3世によって認可されたカトリックの修道会。男子修道会、女子修道会、在俗会の三種がある。正式名称は「説教者兄弟会」Ordo Fratrum Praedicatorum、通称は「説教者会Ordo Praedicatorum(OP)である。

[23] フランシスコ会はアッシジのフランチェスコによって始められたカトリック修道会の総称で、第1(男子修道会)、第2(女子修道会)、第3(在俗会)がある。「小さき兄弟会」Ordo Fratrum Minorum (OFM)が正式名称である。

[24] スペイン人(14911556)。貴族出身の熱心なカトリック教徒。パリ大学に学んだ後、1534年にザビエルらとともに、イエズス会(Society of Jesus)を組織し、宗教改革に揺れるカトリック教会の強化(再宣教)に乗り出した。イエズス会は、特に教育による布教(教育宣教)に力を入れ、世界の各地で学校を経営している。

[25] スペイン人(150652)。イグナチウス・デ・ロヨラに共鳴してイエズス会の創立に参加し、1541年以降インドのゴアを中心に布教。1549年、鹿児島に上陸し、京都を訪れた後、平戸・博多・山口・豊後・島原・大村などで伝道。1552年、中国の広東で病死。

[26] カトリックの宗教生活に大きな比重を占めるこのような崇敬は、少なくともその充分に発達した形では、初期キリスト教の慣行の中には(したがって、新約聖書の中には)見出されない。プロテスタントがそれを斥けるのはこのためである。しかしカトリックの立場では、そのような崇敬も、聖書の中に潜在していた要素の正当な(自然な/摂理的な)展開であるとされる。同じことは、カトリック信仰の中心をなす7つの秘蹟(洗礼、堅信、聖体、悔俊、終油、叙階、婚姻)や、既に述べたローマ教皇の絶対性(首位権・無誤謬性)についても言える。

[27] 自由な祈りが行われていたのではない。おもに旧約聖書詩篇(賛美歌という意味)の句から構成された一定の式文が、朝な夕なに唱えられた。特に、「イエス()のみ名の祈り」という定型句が砂漠の修道者たちの間で好んで反復された。

[28] meditation:気持ちを落ち着け、静かに物事を考えること。雑念を払って何事かに精神を集中できればよいので、不動のまま目を閉じるといった不自然な姿勢をとる必要はない。たとえば 瞑想 ( めいそう ) は、歩きながらでもできる。

 

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