2018/12/07
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キリスト教の『聖書』、イスラームの『クルアーン』(コーラン)に相当するものは、仏教では、一般に仏典(仏教聖典)と呼ばれる。仏典は、多数の文献を含んでおり、『聖書』や『クルアーン』に比べ、きわめて分量が多い。すなわち、『聖書』がイエスの言行録(啓示録)、『クルアーン』がムハンマドの言行録(啓示録)であるのに対して、仏典には、ブッダによって説かれたとされる「経[1]」と「律[2]」に加えて、経・律に関する非常に多くの注釈書(「論」)が含まれている。伝説によれば、
釈尊
の
入滅
直後、弟子の
大迦葉
が、釈尊の教えが消滅するのを恐れ、500人の
阿羅漢
(
阿羅漢
果
という、小乗仏教において悟りの最高の境地に到達した修行者)を
王舎城
[3]の
七葉窟
に召集し、経(教え)と律(規律)の
結集
(
合誦
)を行なったとされる。
これらの経・律・論を合わせた
叢書
は、『
三蔵
』、『
一切経
』、『
大蔵経
』などと呼ばれる。そのサンスクリット語原典は完全な形では現存しないが、南方諸国(小乗仏教・南伝仏教)に伝えられた『パーリ語三蔵』、中国・日本に伝えられた『漢訳大蔵経』、チベット文化圏に伝えられた『チベット訳大蔵経』(⇒モンゴル語訳大蔵経、満洲語訳大蔵経)が存在する。
これらの仏典は、東南アジアに広がった小乗仏教(南伝仏教)においては、等しく重んじられた。これに対して、東北アジアに多く見られる大乗仏教(北伝仏教)においては
種々
の学派・宗派が成立し、それぞれの学派・宗派が『大蔵経』の中の特定の経典を
拠
り
所
とするようになった。そのような経典を、「
所依
の経典」という。
たとえば、中国で成立した
三論宗
という宗派は
龍樹
が
認
めた『
中論
』『
十二門論
』、
提婆
が物した『
百論
』に基づく宗派であり、天台宗は『
法華経
[4]』に教義上の基礎を置く宗派として知られている。同様に、日本で成立した真言宗は『
大日経
[5]』などの密教系の経典を根本経典(
所依
の経典)としており、浄土宗や浄土真宗は『
阿弥陀経
[6]』『
無量
寿経
[7]』などの浄土系経典を
所依
の経典としている。禅宗系は、「
不立
文字
[8]、
教外
別伝
[9]」の立場に立って、文字で書かれた特定の経典に依らないのが建て前である。しかし、『
般若
心経
[10]』や『
金剛
般若経
[11]』などを常用経典としている。
このように大乗仏教においては、経典のすべてを等しく根本経典にするのではなく、それぞれの宗派が特定の経典を「所依の経典」としている点に特色がある。しかし、仏教各派が採用する「所依の経典」が様々であっても、仏典はブッダの「悟り」の体験を文字で表現したものであるから、経典の背後にあるブッダの「悟り」(精神・考え方)こそ、仏教を学び実践する人たちが直接目指すべきものとされている。では、ブッダは何を悟り、何を弟子たちに教えたのだろうか。
仏教は、ゴータマ・シッダールタがブッダガヤーの
菩提樹
の下で宇宙の理法を自覚してブッダ(覚者)となったことを、その発端とする。しかし、どの宗教の開祖についても言えることだが、彼は、自分の教えを理路整然とまとめ、「教義」という形で、弟子たちに伝えたのではない。仏教の教義(仏の教え)は、仏陀に関する言行録(経典)に基づいて、さまざまな時代に、さまざまな宗派の中で、さまざまに解釈され、「発展」した――教祖の教えが永続し、広く人々に受け入れられるための要件は、多様な解釈を受け入れる多義性・曖昧さ(神秘性)である――。したがって、今日の仏典には、ブッダ自身が表明したわけではない解釈が多分に含まれている。しかし、それらの経典を通して、ブッダの根本思想にある程度近づくことができる。この点で、ブッダと経典との関係は、キリストと聖書との関係に似ている。なぜならどちらの聖典も、その開祖の言行を忠実に記録するものではなく、編集者の信仰(願望)によって潤色(神話化)されているからである。以下では、そのような潤色を差し引き、ブッダが教えたものと思われる教えを簡単に紹介しよう。
もともと仏教は、仏教以前のインド諸思想の影響――特にバラモン教の影響――の下で成立した宗教で、
業
[12]・
輪廻
[13]・
解脱
[14]など仏教の教えは、仏教以前のインド思想に由来する。これに対して、ブッダの教え(仏教)を他の諸宗派と区別するときの基準とされるのが
三法印
(仏教の三つのしるし)である。すなわち三法印とは:
@
一切の存在は無常である(
諸行
無常
)。
A
一切の存在は無我である(
諸法
無我
):「物」や「自我」は、恒常不変性を持たない(雲を手に取るようなもの)。
B
一切の存在は苦である(
一切
皆苦
)。
と考えることである[15]。仏教(ブッダ)の教えによれば、このようにすべてのものが無常であり
無我
であるのは、すべてのものが一定の原因と条件の下に存在しているということ(
縁起
)によるのであり、無常なものを常として
執着
するところに人生の苦が生じるとされる。ブッダはこの苦の原因を追求し、それが人間の欲望(
渇愛
・
煩悩
)に基づくことを明らかにし、どのようにすれば欲望を滅することができるかを説き、欲望が完全に滅した状態(
涅槃
[16])こそ、人々が目標として励むべきことと説いた(
四諦
[17]・
八
正道
[18])。さらに、ブッダの教えを忠実に伝えると思われる最初期の経典の中に、「心は本来汚れを離れた清浄なものであって、たまたま
偶時
的な
煩悩
によって汚されているに過ぎない」(
自性
清浄
客塵
煩悩
)という主張がある。これは、すべてのものが仏に成り得る(成仏し得る)という仏教の根本的立場になった。
後に起こった大乗仏教は、このような最初期仏教(部派仏教)の教えを受け継ぎ、それをさまざまに発展させた。縁起説は
空観
[19]に結び付けられて大乗仏教の根幹となり、
成仏
[20]の問題は
如来蔵
[21]・
仏性
説[22]として論じられ、人間の主体性や意識の問題は
唯識
説[23]をもたらした。しかし、仏教のそれらの教義がどのようなものであれ、我々は、今日の仏教諸派が教える「お釈迦様の教え」というものが、本当にブッダ釈尊が意図したものかどうか一度は疑ってみる必要があるだろう。
次に、仏教生活を律する戒律(規律)を概観することにしよう。仏教では元来、在家信者の男性は「
優婆塞
」、女性は「
優婆夷
」と呼ばれ、ともに五戒を守るように求められていた。五戒は次の通りである:
@
生きものを殺さない(
不殺生
)。
A
盗みをしない(
不偸盗
)。
B
正常な夫婦関係以外の不倫行為などをしない(
不邪淫
)。
C
嘘をつかない(
不妄語
)。
D
酒を飲まない(
不飲酒
)。
インドに限らず仏教以外でも、この五戒と共通の条項を求める宗教は少なくない。たとえば、ユダヤ教とキリスト教に共通の戒律には、モーセの十戒というものがあり、確かにこれと似ている(別紙参照)。さらに仏教では、信者に対してこの五戒の他に、例えば
六斎日
[24]と言われるような日に、1日1夜を限って出家者に準ずる戒律を守るように勧められている。これは、
八
斎戒
と呼ばれる。八斎戒とは、五戒のB夫婦以外の性関係を禁じる項目を、その日一昼夜は夫婦間でも性行為を禁じることとし、その他に:
E
高くて広い、美しく飾られた床に寝ない。
F
化粧したり装身具を身につけたりせず、歌や踊りなどを見たり聞いたりしない。
G
正午過ぎに食事をとらない。
の三項をつけ加えたものである。これは、20歳未満の完全な受戒に至らない出家者(
沙弥
・
沙弥尼
)の戒律に準じている。出家者と在家信徒の戒律の異なる点は、出家者にはこの他、蓄財をしてはならないという一項が加えられているのに対して、在家信徒には、出家者に許されない経済行為が許されていることである。
しかし、時代が変わり所が変われば、戒律に関する解釈も変化する。大乗仏教では、戒律の細目に
煩
わされることなく、仏法僧の三に帰依する
三帰戒
の精神さえあれば十分であると考えられるようになり、善行(
施与
・教化・修行)を行う積極性が求められるようになった。さらに、自己の信奉する宗派の修行(
勤行
[25])に専念すれば、戒律はおのずから守られると考えられるようにもなった。しかしこのことから、修行さえすれば不善も許されるという誤解が生まれた。
ともあれ、仏教徒の守るべき戒律の基本は五戒であり、信徒はこの五戒の精神に
則
った生活を営むべきだとされる。なお、戒律の制定時には存在しなかった行為、たとえば喫煙は、
不飲酒
戒に即して
慎
まれるべきだと考えられている。自然保護や安楽死などの問題についても、同様に、不殺生の立場から論じることができよう。
『
梵網経
[26]』という経典に、
飲酒戒
・食肉戒・食
五
辛戒
が挙げられている。
飲酒戒
は酒を飲んではいけないという戒め、食肉戒は肉を食べてはいけないという戒め、
食五
辛戒
は五種の
辛味
や臭みのある野菜(
大蒜
、
葱
、
韮
、
浅葱
、
辣韮
など)を食べてはいけないという戒めである。それらの戒めの目的は、物事への執着を
催
す色欲や怒りの心などを避けるためであるとされる。
この中で、
飲酒
戒(
不飲酒
戒に同じ)は、五戒の一つに数えられている重要な戒律である。しかし飲酒戒は、当初は、戒律になっていなかった。しかし釈迦のある弟子が、差し出された酒を飲み過ぎて泥酔し、前後不覚になってしまったため、以後、飲酒は禁止されたと言われている。酒を飲んで酩酊すれば、他の規律を守ることができなくなるため、飲酒は避けなければならないのである。
また、食肉戒に関しても、肉や魚を食べることがまったく禁止されていたわけではない。修行僧たちが
托鉢
[27]で受けた供養の品々の中に肉や魚が混ざっていることがある。修行僧たちは、托鉢の盆で受け取った食べ物の中から、いちいち肉類を取り除くのはあまりにも煩わしい。これも新たな煩悩になる。そこで、次の肉は食べることができるとされた:(1)殺されるのを自分自身が目撃しなかった肉。(2)自分のために殺したと聞かなかった肉。(3)自分のために殺したという疑いのない肉。これらの肉は三種の浄肉と呼ばれ、修行僧も食べることを許された。食肉戒と食五辛戒とは出家修行僧に課せられる規律であるが、飲酒戒はすべての仏教徒が守るべき掟とされている。
仏教の礼拝の対象は、おもに仏像である。仏像も小乗仏教(南伝仏教)ではほとんど釈迦一仏に限られる。まれに、仏の一歩手前の境地にある
菩薩
も礼拝の対象とされることがある。しかし、釈尊の苦行像、
入定
[28]像、涅槃像などの別はあっても、他の仏の像などが
本尊
[29]となることはない。
これに対し北方に伝わった大乗仏教(北伝仏教)では、
過去
七仏
[30]や未来の仏陀たちを認める立場から、仏像の種類も多く、仏の一歩手前の境地にある菩薩も礼拝の対象とされることが多い。
声聞
[31]や
羅漢
[32]と呼ばれる仏弟子たちの礼拝像も大乗仏教の特色と言えよう。釈尊に仕える弟子(
羅漢
)の他に、天部と呼ばれる
眷族
像[33]も仏像に準じて、礼拝の対象となっている。しかしそれらは、必ずしも信仰の純粋さを示すとばかりは言えないように思われる。
仏教の初期に存在した仏塔(ストゥーパ)[34]、および、それに収められた
仏舎利
[35]への礼拝は、大乗仏教や小乗仏教に共通して見られるもので、日本では木造の五重塔となって伝わっている。五重あるいは三重の塔の頂上に近い
伏鉢
[36]は塚を表わし、
心礎
[37]に収められた舎利容器は仏舎利を納めた容器を象徴している。墓石や
塔婆
[38]も同様の意図で作られている。
さらに、具体的な仏像でなく、仏の世界を象徴する
曼陀羅
も、教化の手段を兼ねた礼拝の対象である。そればかりか、古来の
自然崇拝
(神道)と習合して、
本地
垂迹
説[39]の考えに従って神像も仏像と同様に礼拝され、山・樹木・滝などが礼拝の対象となっていることもある。
修験道
は神仏の両方に仕えている。
このように、仏教において礼拝の対象は、南方の小乗仏教国ではほとんど釈迦一仏に限られる。これに対して、北方の大乗仏教国では仏像の種類も多く、仏陀以外の菩薩・天部・
羅漢
・
眷族
・マンダラなども礼拝の対象とされ、さらには、宗派によっては自然崇拝も許容され、現在に至っている。
[1]
ブッダの説いた「教え」(悟りの内容)を文章にまとめたもの。
[2]
僧尼(信者)の守るべき生活規律。
[3]
古代インド、マガダ王国の首都ラージャグリハの漢名。最初に仏典の編集が行なわれた場所。現在のインド北東部、ビハール州のラージュギルに当たる。
[4]
正しくは『妙法蓮華経』という。大乗仏教の重要経典の一つ。漢訳に
竺法護
訳10巻(265〜316年)、
鳩摩羅什
訳8巻(406年)、
闍那崛多
・
達磨
笈多
訳8巻(601年)の3種が現存するが、通常は鳩摩羅什をさす。永遠の仏を説く。
[5]
正しくは『大毘盧遮那成仏神変加持経』という。
善無畏
訳7巻。7世紀半ば、西インドで成立したと考えられ、チベツト語訳も現存する。胎蔵法なるものを説き、これに基づいて胎蔵界曼荼羅が描かれる。
[6]
鳩摩羅什
訳。阿弥陀の極楽浄土の姿をたたえ、この仏の名を唱えて、その浄土に往生することを勧める。
[7]
魏の
康僧鎧
の訳とされてきた。上巻には阿弥陀の48の願とその修行によって得られた浄土の理想を説き、下巻に衆生の極楽往生の有り様などを説いている。
[8]
経典は悟りのための一つの手段に過ぎないとして、ひたすら坐禅に励んで経典の説く真髄を捉え(
只管
打坐
)、経典を超えることを示した言葉。
[9]
経典などの文字や言葉によらずに仏の悟りを、師の心から弟子の心へと直接伝えること。
[10]
正しくは『般若波羅蜜多心経』という。般若経典の精髄を簡潔に説いた経典。1巻。鳩摩羅什訳と
玄奘
訳の2つがあるが、日本では玄奘訳が
読誦用
として流布している。なお、
般若
は「知恵」、
波羅蜜
(波羅蜜多)は「究極の・完全な」という意味。
[11]
正しくは『金剛般若波羅蜜経。』大乗経典の一つ。1巻。般若(智恵)の見地から一切法の空、無我を説き、囚われを去って清浄の心に住すべきことを説いた経文。6種の漢訳があるが、鳩摩羅什訳がよく知られている。
[12]
「カルマ」(karman):前世の善悪の行為に応じて、現世で受けるその報い。
[13]
「サンサーラ」(samsara):車輪の回転して極まりないように、衆生が迷いの世界に生死を繰り返すことをいう。
[14]
「ヴィムクティ」(vimukti):この世のすべての煩悩・迷いの苦悩から抜け出して、真の自由の境地に達すること。
[15]
後に、
涅槃
寂静
が加えられた:すべての煩悩(迷いや悩み)を克服し、不生不滅の悟りを得た物静かな境地(解脱)。
[16]
「ニルバーナ」(nirvana):「吹き消すこと」「吹き消した状態」という意味で、煩悩の火を吹き消した状態をいう。
[17]
「諦」とは、サンスクリット語で「真理」という意味:@人生は苦であるという真理、
Aその苦の原因は人間の執着にあるという真理、
Bこの苦を滅した境地が悟りであるという真理、
Cその悟りに到達する方法は八正道であるという真理。
[18]
悟りに達するための八つの基本的な実践法:正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定。
[19]
一切は、因縁によって生じたもので、永遠不変の自我や実体はなく、すべて空であると見なすこと。
[20]
煩悩を脱して悟りを開くこと。俗に、死んで仏となることを意味する。
[21]
如来(真理から来た者=仏陀)になる可能性のこと。
[22]
すべてのものに、仏陀になる可能性が備わっているとする説。
[23]
一切の存在は識(意識)としての心が現し出したものに過ぎず、識(意識)以外に存在するものはないという唯心論。
[24]
一般に、月の8日・14日・15日・23日・29日・30日をいう。なお、「斎」とは忌み避けるという意味である。
[25]
仏前で時を定めて読経、礼拝、焼香などをする儀式をいう。
[26]
全部で2巻。鳩摩羅什の漢訳と伝えられる。
[27]
僧尼が経文を唱えながら各戸をまわり、米や銭などの施与を鉢に受けること。禅宗では厳重な規律を定め修行の一環とするが、他の諸宗派でも広く行われている。
[28]
禅定(涅槃)の境地に入ること。心を統一集中させて、無我の境地に入ること。
[29]
寺院・仏壇などで中央に祭られ、礼拝の主な対象となる仏像。また、個人が特に信仰する仏。
[30]
釈迦を含め、これまで現世に現われた7人の仏:
毘婆尸仏
、
尸棄仏
、
毘舎浮仏
、
拘留孫仏
、
倶那含
牟尼仏
、
迦葉仏
、
釈迦牟尼仏
(=釈尊)の総称。
[31]
釈迦の説法する声を聞いて悟りを得た弟子。
[32]
阿羅漢の略。悟りの最高の境地に達した修行者。ただし小乗仏教では、釈尊と同じ境地に立てる者はいない。
[33]
仏陀に仕える神々。
[34]
仏の遺骨を安置して造建された塔(
卒塔婆
)。当初インドでは
土饅頭
の形であったが、各地に伝播するにつれて、三重塔、五重塔、多宝塔などに変形した。
[35]
釈迦の遺体、または遺骨。
[36]
屋根の頂の露盤の上にある、鉢を伏せたような半球形のもの。
[37]
塔の中心柱の基石。
[38]
本来は仏舎利を安置する建造物(ストゥーパ)。供養のため墓に立てる塔形をした細長い平板。
[39]
神道の神は、世の人を救うために姿を変えてこの世に現れた仏の化身だとする神仏同体の説。すでに9世紀ごろからこの種の神仏習合説が唱えられ、平安末期から鎌倉時代にかけて、すべての神社に本地仏が定められるほど盛んとなり、明治の神仏分離まで続いた。