オリゲネスにおける

神の痛みのオイコノミア

朱門岩夫著

最終更新日2018/12/08

 


本稿は、日本キリスト教学会刊行の機関紙『日本の神学』(1994年)に記載されたものを手直ししたものである。本稿の注は、煩雑さを避けるために割愛したが、そのフランス語版に記載されている。なお、1994年当時の正式版は、PDFファイルで閲覧できる。もちろん、盗用は厳禁である。

なお、訳注には次のギリシア語フォントを多用している。ご入用の方は、WINDOWSFONTSフォルダーにそれを格納して利用していただきたい。

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 「あらゆる点で正統な教えと教会の教義に従う」「聖なる・普遍の・教会の人」オリゲネスの『創世記第8講話』には、『創世記』第22章に書き記されているアブラハムの息子イサク奉献に関するとても感動的な教話が残されている。オリゲネスはそこで、神によってその信仰と従順を試されたアブラハムが、神への愛と血肉への愛との板挟みの中で腸が引き裂かれるような思いを味わったのではなかろうかと述べ、イサク奉献の記事に神の御子キリストの派遣と受難を重ね合わせているのである。この第8講話を初めて日本語に訳した小林稔師は、その翻訳の冒頭で次のように前置きしている。「教会は、父なる神が御子を死に渡したということの意味を知らせるために、このアブラハムの記事を読ませるのである。ところが、古代教会において、オリゲネスはその説教の中で、アブラハムの物語をすでにこの意味で解釈している。殉教者たるすぐれた父親に恵まれ、神の、父としての心に深く感じ、これをよく理解していた彼の思想に触れることは、現代人のわれわれにとっても有益であると思い、あえてこれを訳した次第である」。

 もちろん、この講話を丹念に読んでみると、オリゲネスは、御父なる神ご自身が御子の派遣と受難に当たってご自分の腸を痛めるのだとは、はっきり言っていない。しかしオリゲネスがこの講話で言う、断腸の思いという言葉は、ルフィヌスによるラテン語訳ではpaterna viscera crucianturあるいは(immolandus filius) viscera paterna concussitとなっていて、オリゲネスが『ヘクサプラ』の中で、『エレミア書』第3120節の「我が腸痛む7)」のギリシア語訳として紹介する、アキュラ訳およびシュンマコス訳の言い回しとほぼ一致するのである8)。教皇ヨハネス・パウルス二世は、その回勅『いつくしみ深い神』の中で、この『エレミア書』の箇所を参照しながら、「(主は)この民の不忠実にいらだたされて、以後顧みるまいと思うときも、ご自分のものどもに対するやさしさとおおらかな愛こそが怒りに勝つようにさせるのでした」と述べて、人類の救いとあがないの歴史の中で啓示された、いわゆる神の「怒を克服せる神の愛」を明らかにしている。してみるとオリゲネスもまた、人類の救いとあがないのオイコノミアの中で啓示された神の愛の苦しみの神秘的現実を、「身をふるわせているような神の愛の姿」を認め、これをこの『創世記第8講話』で、信仰の父アブラハムの息子イサク奉献の記事の中に投影し、表明しようとしていたのであろうか。

 

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