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 確かに教会はその初めから、キリストの御受難の秘義を中心に据えながら、いつくしみ深い神の苦しみの神秘的現実を公に認めていたように思われる。たとえば、553年に開催された第5回公会議は、オリゲネスの思想を断罪する一方で、ヒュポスタシスという概念の明確化によって、受肉以前の御子なる神のヒュポスタシスとイエズス・キリストのヒュポスタシスとのペルソナ的同一性を確認し、イエズスの受難と死去は、まさしく御子における神の御受難と御死去であることを高らかに宣言していたのである。それは1992年に公刊さた「新カトリック要理」でも同様に確認されている。ところがJ.メイエンドルフによると、御子なる神のヒュポスタシスとイエズスの人性との関係をevnupo,statojという概念によって的確に把握するのに大きな貢献を果たしたのは、皮肉にも他ならぬオリゲネス主義者、いわゆるビザンティンのレオンティオスという人物だったのである。もちろん、レオンティオスのこの貢献によって、オリゲネスの断罪が有名無実化していたというわけではない。確かに、メイエンドルフが綿密に分析し、明らかにしているように、後の公会議の光に照らして見ると、少なくともオリゲネスの思想の形而上学的前提には、普遍の教会の教えとしてはとても受け入れられないいささか思弁的過ぎる仮設が含まれている。つまり霊魂の先在という仮設と受肉以前の神の御子と人間的魂の合一という仮設である。しかしこの形而上学的前提がどうであれ、敬愛すべきH.de リュバック枢機卿の高名な弟子、P.ネメシェギ師が端的に立証したように、現存するオリゲネスの諸作品を読む限り、神の御子と人間イエズスとのペルソナ的な結合およびavnti,dosij ivdiwma,twnを、オリゲネスが事実上考え、これを信じて疑わなかったことは承認されねばならない。しかしそれは詰まるところオリゲネスが、神人イエズス・キリストの御受難と御死去の内に、哲学的なアパテイアの理想を超えた、他ならぬ神の、御子における、御受難と御死去、一般に受動性passibilitasを見ていたということになるのではないだろうか。実際、ヒエロニムスのラテン語訳によるオリゲネスの『エゼキエル書講話』には、御父なる神も御子なる神と同様に人類の救いのために、苦しみを堪え忍ばれます。「その苦しみとは何でしょうか。それは愛の苦しみです(caritatis passio)」。「神さまが人間のことを配慮なさるときには、人間の苦しみを忍ばれます。・・・実に御父ご自身、苦しまれない方ではございません(Ipse pater non est impassibilis)」という真に驚嘆すべき講話が伝えられているのである。

 もちろん、オリゲネスの神の受動性の問題を取り上げた研究者は少数ではあるがおり、深い洞察に富んだ結論を提出している。たとえばリュバック師は、そのオリゲネス研究の記念碑的作品『歴史と霊』の中で、オリゲネスにおける神の愛は、ストア派の哲学的なアパテイアを超える情念である、だからこそオリゲネスの「雅歌注解」では、神がアガペーと呼ばれようがエロースと呼ばれようが問題にはならなかったのだ20)、神の情念とアパテイアのパラドクスを解く鍵は、神の測りがたいいつくしみ、「愛の神秘」(to. th/j avga,hj musth,rion)の内にあるのではなかろうか、と述べている。確かにオリゲネスは、その『雅歌注解』の序文で、リュバック師が指摘するように、アガペーとエロースについて次のように言っているのである。

 

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