第1節

理性的被造物の創造と離反・転落

 

 オリゲネスによると、「ありとあらゆるすべてのものは、神によって予め知恵(としてのキリスト)の内に明らかに示された将来のものの諸理拠に従って」(2)、「無から」(3)存在を与えられた(4)。特に理性的被造物は、自由意志を本質的に備えた非物体的不可視的な精神(5)として、したがってまた、非物体的不可視的な「神との一致の内に存在を与えられた。しかしそれは、「それがそれによって造られたところの創造それ自体からして、可変的である」というのは、そもそも、「かつて存在しなかったが、存在し始めたものは、そのこと自体からして可変的な本性を持つ」ものだからである(7)。したがって理性的被造物は、本性的に変わらずに善き御方として永遠に実在し続ける神とは違って、自由な精神の多様性の故に、創造の原初に維持していた至福に満ちた神との交わりから離反・転落して、この世の朽ち果てるべき有限な可視的物体を、神への改心の転機となる慈愛に満ちた罰として、担うようになってしまったのである(8)。

 このようにオリゲネスは、理性的被造物は無から造られたが故に、少なくともその存在に関して有限であり、また、それはその自由な不可視的精神において神とのある種の近親関係を持ちながら有限な可視的物体の中に閉じ込められてしまったと考えているのである。

 ところでオリゲネスが、至福に満ちた神との交わりからの理性的被造物の離反・転落の原因を何に求めているかについては、様々な意見が提出されている。理性的被造物の離反・転落の原因は、怠惰(neglegentia:avme,leia)にあると推定しようとする意見もあれば(9)、その原因は、嫌気(satietas:ko,roj)あるいは神への愛が冷却すること(caritas refrigescere vel frigida effecta)にあるとする意見もある(10)。しかしながらオリゲネス自身は、その原因を、怠惰や嫌気、あるいは、愛の冷却に求める他に、それが、至福に満ちた交わりを成立させ維持させる神の恵みを知らないこと(11)、すなわち無知(ignorantia:a;gnoia)にあることをも強く示唆している。したがってオリゲネスの思想において、離反・転落の原因を一つに定めるには、私たちは慎重な態度をとらねばならないように思われる。

 なるほど一見してオリゲネスが、離反・転落の原因として繰り返し怠惰を挙げていることから、離反・転落の原因は、怠惰にあると言うことができるかもしれない。しかし素朴な疑問としてその怠惰の原因をオリゲネスの思想の中で更に問うことはできるのであるから、怠惰以外の原因が彼の思想の中で存立し得ないことが文献に即して検討され立証されないかぎりは、離反・転落の原因は怠惰であるとする意見をオリゲネスの見解として認めるわけにはいかない。同様のことは、嫌気および愛の冷却についても言える。他方、無知を離反・転落の原因とすることも可能であるが、理性的被造物が神との交わりを楽しむ離反・転落以前の始源の至福の状態において、果たして無知が成立し得るのかどうかが問題にされるところである。

 しかしながらオリゲネスは、『諸原理について』第3巻第6章の1で、旧約聖書『創世記』第1章26節の「そして神は言われた。われわれは、われわれの像(eivkw/n)とわれわれの似姿(o`moi,wsij)とにかたどって人を造ろう」。および『同書』第1章27節以下の「神は人を造られた。すなわち神の像にかたどって人を造り男と女とを造られ、彼らを祝福された」を注解して、次のように述べている。

 「モーセが(27節で)『神はその像にかたどって人を造られた」と言って、似姿(similitudo)については沈黙しているのは、人間が第一の創造において像(imago)の品位(dignitas)を受け取ったが、似姿の完成は(宇宙万物の)完成の時まで留保されていることを示しているのに他ならない。すなわち人間は自ら、自分自身の勤勉な熱意によって神を模倣することで、それ(すなわち神の似姿)を手に入れるべきである。というのは完全になることの可能性は、像の品位を通して始源の諸状態において人間に与えられているが、人間は、終わりの時になって始めて、諸々の働き(opera)を成し遂げることで、完全な似姿を自ら仕上げるべきだからである』(12)。

 このように人間は、第一の創造の始めから自らに与えられている「神の像」にかたどられた有り方から、「(神の)像の品位を通して」潜在的に与えられている「神の似姿」の完成ヘと熱意をもって歩みを進めるようにと神に招かれているものとオリゲネスによって考えられているのである。しかし人間が「神の像」にかたどられた有り方から、「神の似姿」の完成へと進むべきであるということは、有賀鐵太郎が言うように、人間が、その第一の創造の始めから宇宙万物の完成の時まで、不完全さを残し続けているということに他ならないのではあるまいか(13)。

  事実、オリゲネスも、『ヨハネによる福音注解』第13巻36の23で次のように言うのである。おん父なる神によって造られた理性的被造物は、何らかの原因で、始源の状態から離反・転落して不完全なものとなった。そしておん子キリストは、「この不完全なものを完成されたものにする」ために、この世に遣わされた。しかし「おん父が、不完全なものの造り主になっていたということは条理を逸したことである」から、少なくとも離反・転落以前の理性的被造物は、完全であったに違いない。ところがオリゲネスは、「あらゆる意味での不完全さ」(pa,nth| avtele,j)と何の限定もない「不完全さ」(avtele,j)とを使い分けて、離反・転落以前の理性的被造物について部分否定の表現を用いながら、「たぶん、楽園に置かれたときには、理性的なものは、あらゆる意味で不完全であったというわけではないでしょう」と述べ、始源の状態における理性的被造物に、不完全性が成立する余地を残しているのである。その言葉によって、オリゲネス自身の考えの明確な証言が得られたわけではないが、どうやらオリゲネスは、P.ネメシェギやH.クルゼルも指摘するように、始源の完全性と終末の完全性とに程度の差を設け、後者を前者の上に置いていたように思われる(14)。

それゆえ、もし私たちが、「神の似姿」の完成についてのオリゲネスの言葉に従って考察を推し進めれるとすれば、人間あるいは一般に理性的被造物は、始源の状態においてさえ、ある意味で不完全さの余地を残していると考えられるのであるから、神との至福に満ちた交わりからの離反・転落の原因を、理性的被造物が、神の善良な意思と自らの「尊き起源と崇高な目標と課題」(15)とを完全には認識していないこと、すなわち無知に求めることもできるだろう。すなわち理性的被造物は、真の善さ、真の正しさ、あるいは真の幸福を十全に知らずに、自ら正しいと思いなすところに従って、離反・転落して行ったのである。

 しかしもちろん、それは私の推測の域を越えるものではない。当のオリゲネス自身は、理性的被造物が、始源の状態において不完全であるとか、離反・転落の原因を、それとして、確定的にはっきりと言明しているのではないから、その原因を不完全性に起因する無知と断定することは、早計である。しかし少なくとも次のことだけは確実に言える。すなわち、始源の状態から、何らかの原因によって自ら離れた理性的被造物は、不完全であるとオリゲネスが考えていること、他方、離反・転落以前の理性的被造物の始源の状態には、「何かしらより深い神秘が貯えられており」(16)、「すべてのものの始源と宇宙万物の終末」とは、三位一体の神以外には、いかなる理性的被造物によっても完全には知り得ない神秘である。したがって、離反・転落の原因についてのいかなる言表も不確定な仮設に留まる、とオリゲネスが考えていることである(17)。

 ともあれオリゲネスによれば、「神の像」にかたどって造られた有り方から「神の似姿」の完成へと招かれている理性的被造物は、何らかの原因による自由意志の乱用のゆえに神との至福に満ちた交わりから離れ去り、この世の多様な生を受けた。そして、それらの多様で混乱した思いなしをする転落した理性的被造物を、再び神の思いへと向わしめ、神に帰一せしめること、すなわち「神の似姿」の完成へと導くこと、それが、オリゲネスによれば、神の救いのオイコノミアの目標なのである。オリゲネスは、次のように言う(18)。

 「しかし神は、ご自分の知恵の言いようのない術によって、ありとあらゆる仕方で生起するすべてのものを、それらが何かしら有益なものとなるように、そしてすべてのものの共通な益となるように、変容され、かつ(完成への)進歩を回復される。すなわち、自分から精神のこれほどの多様性へと離反していったこれらの(理性的)被造物そのものが、その精神の様々な動きにもかかわらず、一つの世の充満と完成とを成し遂げるように、更に精神の多様性そのものが、一なる完成の終末ヘと向うように、神はそれらの(理性的)被造物を、働きと熱意との或る一なる和合へと呼び戻しておられるのである。実際、世のすべての多様性を引き締め包摂し、かつ多様な動きを一つの働きへと導く力は唯一なのである」。

 

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