第3節

神の一と多

 

 かくしてオリゲネスの経綸的三位一体論においては、おん子と聖霊とは、すべてのものの救いのオイコノミアの内で、おん父なる神に一致して働き、何らかの原因によって自由意志の多様性のゆえに、神との至福に満ちた交わりから離反・転落した理性的存在者の堕落の程度に応じて、多様で変化に富み、しかも唯一の神の働きとして、相互にまったく同等な働きをしていることが明らかになった。そこで再び、私たちが本論文の第1章で提起した神認識の第二の問い、すなわち、「神の何がしかは如何にして認識され得るのか」という問いの考察に戻ることにしよう。

  これまでの私たちの考察では、神の「何がしか」の認識は、すべてのものの救いのオイコノミアの内で多様に働く神のデュナミス・エネルゲイアによって得られ、しかもそれらの複数のデュナミス・エネルゲイアが、また神であるとオリゲネスによって捉えられているのを見て来た。しかし本章の冒頭で私たちが指摘したように、オリゲネスにとって唯一であるはずの神が、オイコノミアにおいて複数の、すなわち多くのデュナミス・エネルゲイアとして、有限な被造物の精神の眼差しの内にどのようにして収まるのかを検討するために、その準備段階として、先ず、本章の第1節では、理性的被造物の至福に満ちた始源の状態からの離反・転落と「神の像」にかたどって造られた在り方から「神の似姿」の完成への進歩とに関するオリゲネスの考え方を明らかにし、次いで被造物を完成の域へと向けて配慮する神の様々なデュナミス・エネルゲイアの相互関係に関するオリゲネスの考えを、経綸的三位一体論と呼びつつ、明らかにしたのである。すなわちオリゲネスによれば、おん父とおん子と聖霊の「いろいろな種類」の働きは、結局、「唯一の神」の働きなのである。

 さて、オリゲネスは、そうしたオイコノミアの内で多様にかつ同等に働く神のデュナミス・エネルゲイアのうち、特に、おん子の働きについて次のように考えている。

 「神は、あらゆる点でまったく一であり単純です。しかし私たちの救い主は、神が、その方をあがないの供え物そして全被造物の初穂としてあらかじめお立てになられたので、多くのもののために多くのものとなられます。あるいはたぶん、解放され得る全被造物が、その方を必要としていることに応じて、すべてのものともなられます」(36)。

 同じく、

 「ですから、救い主は、パウロよりもはるかに神的な仕方で、『すべてのもののためにすべてのもの』(I Co.9.22)となられました。それはすべてのものを得るため、あるいは完成に導くためです。そして明らかにその方は、人々のために人となられ、天使たちのために天使となられました」(37)。

 そしてオリゲネスは、

 「この方は、すべての被造物に浸透しておられます」(38)。

 「その方は、すべての人々のもとに臨み、また宇宙全体に及んでおられます」(39)。

 とも言う。

 このようにおん子は、おん父なる神とそのデュナミス・エネルゲイアを同じくし、「死すべきものたちに共通な弱さ」(40)を備えた被造物の必要に応じて自らを個別化しながら、世界に内在し浸透して働き、離反・転落した理性的被造物を「神の像」から「神の似姿」へと導く、すなわち「この不完全なものを完成されたものとする」(41)とオリゲネスは考えているのである。

  ところで被造物の必要に応じて自己限定し有限化した神は、もはや真の意味での神ではなくなろう。しかしながらオリゲネスに依れば神は「あらゆる点でまったく一であり単純である」(42) から、「活動したり何かを働くために(moveatur vel operetur aliquid)」(43)物体的な場所を必要とせず、物体的な場所の中に包含されることなく、すべてのものにその働きを及ぼす(44)。また父なる神と神性を実体的に同じくする「神の子の神性は、非物体的本性の卓越性に従って、いかなる場所の中にも包含されないと同時に、それが存在しない場所は一つもないと考えねばならない」(45)。というのは、非物体的で不可視的な神性については、「部分を云々することも、何らかの分割を行なうことも不可能だからである」(46)。すなわちオリゲネスは、神が、純一単純であるがゆえに「全体と部分のカテゴリーを超越」する御方として、あらゆるものの内に、その全く非延長的な神性において現在すると考えているのである(47)。それはつまり、たとえ神が、被造物の必要に応じて自己限定したとしても、その神性がいささかも損なわれることなく、その限定されたものの中に、現在するということに他ならない。

  したがって私たちは、オリゲネスの見解に従うかぎり、すべてのものの救いのオイコノミアために多様に働くおん子のデュナミス・エネルゲイにおいて「すべてのものの内にすべての働きをなさる」同じ唯一の神に、本当に、出会うのである。

  こうして、オリゲネスの思想の内部で私たちが提起した、神認識についての第2の問い、すなわち「神の何がしかは如何にして認識され得るのか」という問いに対しては、オリゲネスの側から充分な解答が与えられたと言ってよい。オリゲネスによれば、私たちは、被造物の必要に応じて自らを個別化し多様化した神のデュナミス・エネルゲイアにおいて、実際に、その働きの究極的主体である神に出会い、「神の何がしか」、すなわち、そのつど、特定の働きをする「神」を知るのである(48)。

 

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