結論

 

 これまで私たちは、オリゲネスの思想の中に、神認識について、「神の本性は如何にして認識され得るのか」という問いと「神の何がしかは如何にして認識され得るのか」という問いとを立てて、後者の問いの解答を試みながら、神の本性と神のエネルゲイアおよびデュナミスとについての彼の考え方を明らかにして来た。オリゲネスによれば、神の本性は、不完全な理性的被造物には認識され得ない。しかし神の「何がしか」は、すべてのものの救いオイコノミアの内に働く神のデュナミス・エネルゲイアによって、認識され得るのである。なんとなれば、神のデュナミス・エネルゲイアは、被造的世界の管理と完成のために、それに内在すると同時に、被造物の必要に応じてそのつど自己限定して個別化する「神」ご自身に他ならない、とオリゲネスによって考えられているからである。

 しかしながら神認識についての第一の問いが、依然、十分に論じ尽くされないまま残されており、それについてオリゲネスがどのように考えているかを明らかにしておく必要があるだろう。既に判明していることは、神のデュナミス・エネルゲイアによって、多様に働く神の「何がしか」が理性的被造物に認識され得るとしても、それだけでは、「神の本性」は認識され得ないこと、すなわち、「神の本性」の認識のためには、少なくとも、「神の像」のかたどりとしての理性的被造物の精神と神ご自身との「親近性」、および、神性と人性との完全な結合を実現した「受肉したキリスト」、そして、神・デュナミス・エネルゲイアに導かれながら「神の像」にかたどって造られた有り方から「神の似姿」の完成へと進んで行く、理性的被造物のいわゆる「神化のプロセス」が、必要とされていることであった。

 更に、オリゲネスは、「神の本性」を認識するには、被造物の必要に応じて「すべてのもののためにすべてのものとなられる」おん子キリストの人性から始めて、キリストの神性に導かれながら、様々な名称あるいはエピノイア(evpi,mnoia)なるものによって指示される、多様に働くキリストという上昇の階梯を次々と昇り、知恵、真理、生命、言理としてのキリストに至らねばならないとも言う(1)。したがって「神の本性」の認識可能性の問題を、オリゲネスの思想の内に究明するには、神のデュナミス・エネルゲイアを指示する、神についての様々な名称およびエピノイアをなるものについても、上記の認識可能性の条件とともに、合わせて考察せねばならないだろう(2)。

 しかしながらそれらについての立ち入った考察は、別の機会に譲らねばならない。

 ともあれ私たちは、オリゲネスの思想の内部で、神認識の可能性を問い、その根拠を探求し究明する過程で、神のデュナミス・エネルゲイアにおいて、果てしない広がりを見せるオリゲネスの広大な宇宙論的救済論の一端を垣間見ることができた。オリゲネスにとって、神はその本性において宇宙万物を超越すると同時に、そのデュナミス・エネルゲイアにおいて宇宙万物に内在するのである。オード・カーゼルの言葉を引用して、それを言い換えれば、「神の本性は世界を無限に超越しているのに、神は恵みによって被造物の中に、人類の中に住まわれる。神は超越的であると同時に内在的である。神は本性としてはすべての被造物を越えたものでありながら、すべてのもののうちに現存し、すべてのものに働くことによって、すべての被造物を貫いているのである」(3)。したがってこの宇宙は、言うなれば神の力と働きの力動的かつ宇宙論的な作用の場、これまた再びカーゼルの言葉を引用すれば、「神の力の舞台」(4)ということになる。それゆえまた、オリゲネスにとっては、後の西方教会の神学において概念的に区別され定式化されたところの、自然と恩恵、あるいは自然と超自然との区別は存在しなかったとも言えるだろう(5)。

 

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