朱門岩夫著

オリゲネスにおける

神の本性とエネルゲイア

1990年3月

最終更新日18/12/08


 

緒言

 有賀鐵太郎は、その著書『キリスト教思想における存在論の問題』(1)の叙述の中で、ユダヤ教およびキリスト教に固有の神観は、神の名の啓示として有名な、旧約聖書『出エジプト記』第3章14節の「われは有るところの者なり」(有賀訳) (2)という言葉のヘブライ語原文「エヒ・イエ・アシェル・エヒイエ」('ehyeh 'asher 'ehyeh)に典型的に表されていると言い、「エヒイエ」(ehyeh)の不定形「ハーヤー」(hayah)をとって、それをハヤトロギアと名付けた(3)。有賀によれば、従来、『出エジプト記』の当該箇所は、七十人訳ギリシア語聖書では、「エゴー・エイミ・ホ・オーン」(evgw, eivmi o` w;n)とか、標準改訂英訳聖書(RSV)では、 I am that I am とか訳されていて、ユダヤ・キリスト教思想に神と存在とを同一視させる契機を与えることになった(4)。しかしヘブライ語原文では、「有る」と訳される動詞「ハーヤー」は、本来、「生成する」、「生起する」、「作用する」、「有らしめる」等の作用的な意味で用いられるものであり、「存在する」とか「・・・である」という存在的繋辞的な意味では、前者に不随した形でしか用いられない(5)。したがって上記の引用句は、それを多少なりとも原意に忠実に訳出するとすれば、「わたしはハーヤーする、そのわたしはハーヤーする」または「わたしはハーヤーするのだから、わたしはハーヤーする」(6)ということになる。しかも『出エジプト記』第3章14節の後半では、神の名として更に「エヒイエ」だけが挙げられ(7)、また15節では、「エヒイエ」と同語根の「ヤハウエ」(Yahweh)が、これまた神の名として立てられていることから(8)、それらの神の名を通して、ユダヤ・キリスト教の神は、万物を「有らしめる者」(Yahweh) (9)、常に働き続ける創造的な絶対的主体であることが看て取れるのである(10)。また、以上の神名は、神とモーセとの語らいの文脈の中で、神からモーセへの「語り」、神の言葉すなわち「ダーバール」(dabhar)として成立したものであるから、有賀によれば、神はまた、言葉・ダーバールとして、人間に語りかけ、人間に現成し、人間と「われとなんじ」という人格的関係そして契約関係を結ぶ神であるとされる(11)。

 かくして有賀によれば、ユダヤ・キリスト教の神は、一つひとつすべてのものを有らしめ、それに語りかける人格的な創造力、創造的意志であり、武藤一雄博士の言葉を引用すれば、それは「動的人格的存在、不断に自己を啓示する存在であり」「意志的人格的主体として」被造的世界に積極的に関与し、「歴史に内在的でありながら、同時に歴史に対して超越的な神」ということになる(12)。有賀は、そうしたユダヤ・キリスト教に固有な力動的神観を、神と存在とを素朴に結び付けて、それらを静止的固定的に捉えようとする存在論(オントロギア)と対比して、ハヤトロギアと名付けたのである。

 もちろん、そうしたユダヤ・キリスト教の力動的神観は、旧約聖書にだけ見出だされると言うのではない。たとへば、新約聖書『ヨハネによる福音』第5章17節の「わたしの父は今もなお働いておられる。だからわたしも働くのだ」では、神が常に働き続けていることが言明されており、また『ピリピの人たちへの手紙』第2章13節の「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行なわせておられるのは神だからです」という言葉のギリシア語原文を参照することによって、ユダヤ・キリスト教の神が、能動的に「働く神」(qeo,j ga.r evstin o` evnergw/n)であることが読み取れるのである。

 しかしながら、神がその不断の働きの内にあって、人間に語りかけ、そのダーバールの内に自らを顕わし、人間との間に、「能動的能動性」対「受動的能動性」という人格的関係を結ぶとしても(13)、神からの働きを自らの存在基盤として受動的に受ける人間は、一体どのようにしてその神からの働きかけ、神の語りかけ・「ダーバール」の内に顕れる神の自己顕示を、まさに神のものとして判別し、それに能動的に答え、人格的な応答関係を結ぶことができるのであろうか。

 なるほどパウロによると、「なぜなら神について知り得る事柄は、彼ら(人間)には顕らかだからです。神が、彼らにそれを顕らかに示されたからです。神についての目に見えない事柄、神の永遠の力や神性とは、宇宙万物の創造の時から、造られたものにおいて知られ、観られるからです」と言われる(14)。パウロは、そこで、神ご自身が自らについて人間に知り得る事柄を先行的に示しており、ために自然神学的な神認識は可能である、と主張しているのである。しかし、どのようにして具体的個別的な被造物を通して、神についての目に見えない事柄、すなわち神の永遠の力や神性が、それとして認識されるのであろうか。言い換えれば、永遠なるものが時間的なるものの内に現成し自らを顕わし、そのものとして被造物である人間に認識されるとは、そもそもどういう事態を意味しまたどうして可能なのであろうか。他方また、神が宇宙万物の創造の始めから、その一つひとつすべてのものにあまねく働きかけ、その働きの内に自らを顕わし、人間と人格的関係を結ぶとしても、その働きの内に顕わされた神、永遠の力、神性とは何なのか、そしてその働きそれ自体は何なのか、が問われなければならないであろう。というのは働きを働く神のその働きが、被造物の個別的な有り方に応じて多様化し認識されるとしても、私たちは、せいぜいのところ、その多様な働きの内に個別化された神のごときものを知るだけであって、当の働きの主体である神ご自身を知ったことにはならないからである。

 J.A.マローニィによると、14世紀の東方キリスト教会の神学者であり、テサロニケの大主教であるグレゴリオス・パラマス(1296-1359)が直面した問題は、まさしくいま指摘した神認識の可能性の問題だったのである。グレゴリオス・パラマスの教説によれば、神は、その本性においては、被造物である人間が有限である限り、まったく知り得ない御者である。しかしその働き・エネルゲイアにおいて、人間はその有限性・可変性の殻の内に留まりながら、神と直接的に交流する端緒を獲得すると言われる。なんとなれば神の本性は、有限な人間には知り得ないものであるにもかかわらず、神は、そのエネルゲイアにおいて、宇宙万物に浸透し内在して多様に働き、その内に自らを顕わして人間に体験的に知られる。しかもそのエネルゲイアは、「神の行為における神ご自身であり、それ自身造られざる神そのものである」(15)からである。しかしそれはまた、T.deシャルダンの説くごとき、宇宙万物に浸透して、それら全体をオメガ点へと導きつつ有機的で「創造的な統一化」(16)のプロセスを生起せしめているところの「宇宙的キリスト」(17)の物質的かつペルソナ的な「エネルギー」(18)に相当すると言えるかもしれない。

 ところでマローニィは、そうした東方キリスト教会の教義の理解ないしは表現には、ホワイトヘッドの創設したプロセス思想が大きく貢献することになろう。いやむしろ東方キリスト教神学は、逆にその豊かな教義的遺産をもって、プロセス思想の思弁的な世界理解を豊かにするであろうと断言する(20)。

 周知のように、ホワイトヘッドは(21)、その主著『過程と実在』の中で、宇宙を構成する究極的要素である諸々のアクチュアル・エンティティは、ある終極へと向って相互に規定し合いながら、しかし不断に自己創造してゆく、躍動的なプロセスそのものである。したがってそれらより有機的に形成されている宇宙全体も、一つの有機体としてそれ自身の過去的与件にっよって規定されつつ自らを規定し完成させてゆくところの創造的プロセスそのものである、と言う。しかしそうした宇宙の自己創造のプロセスは、神の「原初性」の内に観想された「永遠的諸客体」によって方向付けられている。つまり神は、原初的本性の内に、宇宙全体とその諸部分の躍動的な自己創造の多様なプロセスに内在して立ち合い、それらに応じて、予め原初的本性の内に概念的に抱握されている永遠的諸客体を、各々のアクチュアル・エンティティに、その自己合成の主体的目的あるいは「説得的誘因」として付置する。他方、神はその「結果性」の内で、「生成」から「有」へと向う諸々のアクテュアル・エンティティを抱握して、それらに「客体的な不死性」を与えて保持し、全宇宙を一つの一性へと総合する。したがって全世界は、神の結果的本性の内に内在する。そしてまた神は、その「自己超越性」において、目的を付置され一つに統合された諸々のアクチュアル・エンティティに対して、自らをその抱握の与件として与えてくるのである。そしてそれらの三つの神の本性は、神の部分ではなく、同一の神の宇宙への働きかけの三つの異なった機能と見做されねばならないとされる。「つまり一つの全体としての神は、世界ならびに永遠的諸客体との関係において、あるいは原初的本性として、あるいは結果的本性として、あるいは越えて置かれた本性として機能する」「一にして三、三にして一」(22)なる神なのである。こうして山本誠作博士によると、ホワイトヘッドにとって、「神はすべてを超越し、すべてを包括する全体者である。その限り、永遠で不可変的で、自己充足的で、必然的等々である。と同時に、神は自らをも超越する存在者である。その限り、時間的、可変的、依存的、偶然的等々でもなければならないのである。神が永遠的であるとともに、時間的だとする主張を、もう少し立ち入って検討してみよう。神がすべてを超越している限り、永遠的である。けれども神は同時に自らをも越え出て、時間的世界に自らを与えてくる。その限り、神は世界内在的であり、時間的でなければならない」(23)と言われるのである。

 してみるとホワイトヘッドのプロセス思想およびその超越即内在、内在即超越の「万有在神論的」神観は(24)、J.A.マローニィの主張する通り、グレゴリオス・パラマスによって代表される東方キリスト教会の教義そのものと軌を一にしていると言わなければならないだろう。なぜなら、既に述べたように、パラマスの説くところによれば、神はその本性において宇宙万物を超越し、永遠的である。と同時に、そのエネルゲイアにおいて宇宙万物に内在し、時間的である。そして被造物である人間は、不完全な状態から完全な状態へと進歩するように神に招かれているからである。

 もっとも、ホワイトヘッド自身も、自己の思弁的形而上学は従来の二元論的な哲学的諸前提から独立して、もっぱら現代物理学の方法論と諸成果とに依拠していると言いつつも、古代東方キリスト教会の教父たちの神学的思想の中に上記の見解を読み取ってたようである。実際、彼は『観念の冒険』の中でこう述べている。

 「アレキサンドリアの神学者たちは、世界における神の内在に、大いに心を悩ませた。彼らは秩序に向っての世界の不可避的な繰返しの源泉である原初的有(神のこと・・・山本博士が、いかにしてその本性を世界と分かち合うかという一般的問題を考察した。・・・こうして、時間的諸事物の本性の解明は、永遠的有の内在の把握を含んでいるのである。この学説は、課せられた法則と内在的法則との間の調停を作り出すのである。というのは、この学説によれば、秩序への傾向の必然性は、超越的神の課せられた意志から生起するのではない。それは自然における諸存在が、内在的神の本性を含有しつつあるという事実から、生起するのである」(25)。

 かくしてマローニィは、そうした類似性を踏まえて、次のように言う。「ホワイトヘッドもギリシア教父、とくにパラマスもともに、世界は静止的な現実というよりは躍動的なものであることに同意するであろう。例えば、プロセス思想で人間を変化し発展する生きものであるとするなら、神がそのエネルゲイアによって人間を神の似姿へと変化させると見なすパラマスやギリシア教父一般にとって、このことは一層真実なものであろう。人間への「プロセス的」アプローチは、教父神学において絶対的に基本的なものである」(26)。

 もちろん、そうした力動的な宇宙論と万有在神論とは、パラマスにだけ見出だされるのではない。マローニィによれば、それらは東方キリスト教会の伝統的な教説であり、教義として宣言されているからには、当然、古代東方キリスト教会の教父たちの神学的諸思想の内にその根を持っていなければならないのである。その点は、現代の東方キリスト教会の神学者J.メイエンドルフおよびV.ロースキィが繰り返し述べているところでもある。しかしマローニィにしてもメイエンドルフにしても、またロースキィにしても、上にその概略を示した東方キリスト教会の教義、すなわち神は、その本性において宇宙万物を超越しながら、その造られざるエネルゲイアにおいて、したがってまたエネルゲイアとして、宇宙万物に内在しているという教義の起源を、4世紀のカッパドキアの三教父たち、すなわちバシレイオス、ニュッサのグレゴリオス、ナジアンゾスのグレゴリオスの神学的諸著作の内に求めるのみで、彼らの神学的、精神的源泉をなしているオリゲネスにまで遡って、それを跡付けようとはしない(27)。取り分けロースキィに至っては、オリゲネスの『諸原理について』第1巻第1章の6に述べられている「神は、ことごとく唯一であり、いわば単一であり、精神であり、あらゆる知的存在すなわち精神の始源であるところの源泉である」を引用して、その本性において人間の限られた認識を超絶しながらも、なお自らを啓示し「教会共同体に語りかける」ペルソナ的な神を、単なる思弁的概念に置き換えて、パスカルの語る「哲学者の神」に落しめてしまった、と言って糾弾さえする(28)。しかしながらロースキィのこの非難は、オリゲネスの思想の正当かつ公平な解釈に基づくものであるとは言えないように思われる。

 H.クルゼルは、『オリゲネスと哲学』の付録の冒頭で、オリゲネスの研究の難しさを訴えて、こう述べている。「科学的および歴史的作業のその他の諸部門と同様に、ここでも、取り扱っている研究対象と緊密な接触を保ち、その対象の一切の複雑さを把握している者は、それを簡単な形で読者に提示するのにある種の困難を感じるものである。人々が気に入るような大それた総合とか比較とかを世に出すには、しばしば対象から少し遠ざからねばならず、また厳密性の観点から観て、余り注意深くあってもならないのである。しかしそうした総合や比較はすぐに色あせて行くもので、正当な意見の只中に非常に多くの不自然な観念といくつかの誤った観念とを持ち込むことになる」(29)。

 クルゼルは、「簡単な形」とか「人々が気に入るような大それた総合とか比較」とかいう言葉で、たとえオリゲネスの思想を知悉しているとしても、彼の思想が持つ二律背反的な神秘的次元を無視して、彼を単なるギリシア哲学者、合理的体系家としてしか表出しようとしないオリゲネス解釈に対して、その一面性を指摘しているのである。クルゼルのそれに関する主張を、いまここで事細かに紹介することはできないが、ロースキィによる、オリゲネスは、神を単なる思弁的概念に置き換えて、「哲学者の神」にしてしまったという非難は、クルゼルに従って訂正されねばならないと思われる。

 事実、オリゲネスは、後ほど詳しく述べるように、「神は、ことごとく唯一であり、いわば単一であり、精神であり、あらゆる知的存在すなわち精神の始源であるところの源泉である」と言うことで、神を全面的に思弁的概念に置き換えてしまったわけではない。オリゲネスにとっても、神はやはり、その本性においてはまったく認識不可能な御者であり、したがってまた一切の概念化を免れている御者なのである。しかしながらオリゲネスによれば、神はまた、その働き(エネルゲイア)のくもりのない鏡であるキリストの救いの業・働き、神の霊による浄化・聖化の働きの内で、総じて、宇宙万物の創造以来それに内在してそれを統合管理する神の救いの営み(オイコノミア)の働きの内で、知られるとも言われている。言い換えると、神は、その善性あるいは神性の充ち満ちた豊かさ(プレーローマ)から溢れ出る多様な働き(エネルゲイア)において、自らを様々なアスペクト(エピノイア)の下に顕わし、宇宙万物の完成の終末の暁には、神ご自身に関する神秘を、悉く細部に渡るまで、「顔と顔を合わせて」(30)見るかのように、明らかに示す御者とされているのである(31)。したがって、ロースキィが取り上げたオリゲネスの言葉は、そうした多様なアスペクトに基づいて抽象された不完全でまた終末論的観点から観て暫定的な命題であると見做されねばならないだろう。

 こうして、グレゴリオス・パラマスによって定式化され教義にまで高められた、神の本性とそのエネルゲイアについての考え方は、オリゲネスの諸著作の中に主題的に取り扱われていないとはいえ、やはり見出だされる、と私は考えているのである。いやむしろそうした神観こそが、オリゲネスの神学的言表活動の暗黙の前提をなしていて、それを方向付け、後の東方キリスト教会の神学的および精神的伝統に対して、一つの神学的基礎を提供していると思うのである。そして、神の多様なエネルゲイアを通して、本性的にいまだ知られざる神の認識、つまり「神は何・誰であるか」という神の本性の認識に至ることができるという、聖書の言葉で裏打ちされたオリゲネスの終末論的確信が、神に帰されている多種多様な名称、特にキリストのエピノイアなるものの意味分析へとオリゲネスを駆り立てていると思うのである(32)。なんとなれば、オリゲネスによれば、神の名称およびエピノイアは、人間の救いの営み・オイコノミアのために宇宙万物に内在して、多様に働く神のエネルゲイアを指し示しているからである(33)。

 H.U.von バルタザールは、その著書『霊と火』の序文の中で、「オリゲネスの思想の広大な射程を占有しているものは、先ず、世界の中に神のみ言葉がリアルに現前していることの偉大な秘跡を聖書の本質と見抜く洞察である」(34)と述べている。それは、オリゲネスの思想における神認識が、聖書を通して開示される、宇宙万物の力動的な救いの現実に基づいていることを示していると解釈することもできよう。

 もちろん、オリゲネスにそうした力動的な救いの現実を開示せしめているところの第1級の資料である『聖書』が、彼によってまったくの無前提の下に受け取られ、自由に解釈されていると見做すことはできない。「教会からの者でありたいと祈り求めている」(35)。オリゲネスは、A.ハルナックが正しく述べているように、「教会に属するキリスト者として、教会が(彼は、それによって、完全で純粋な教会を意図しているに過ぎないが)、神の聖なる啓示、すなわち、信仰がまさしくその権威にのみ満足し得るところの、神の聖なる啓示の唯一の保持者であると確信していたのであるから、教会によって保持されているものとしての、二つの契約(の書)だけが、彼によって、絶対に信頼し得る神の啓示と見做されたのである。しかしそれらに加えて、教会の所有物のことごとくが、そして何よりも、信仰規則が、権威を持つものであり聖なるものであった」(36)。したがってオリゲネスの聖書解釈は、やはりH.de リュバックやR.J.デリィ、F.H.ケットラー等も指摘しているように、『諸原理について』および『ヨハネによる福音注解』に表明された、アレクサンドリア教会、パレスチナ教会、そしてローマ教会に伝わる「教会の教え」(37)と『聖書』とを忠実に守ながらそれらの間を循環しつつ深められ、獲得されていったものなのである(38)。

 ともあれ、以上に述べた事柄を、すなわち、その本性における神の世界超越(神が、その本性においては、時空的な限定を受けず、有限な人間には認識され得ないこと)とそのエネルゲイアにおける神の世界内在(神が、そのエネルゲイアにおいて、時空的世界の中に内在して有限な人間に自らを顕わすこと)、および、この後者の思想によって根本的に支えられている力動的な世界観を、オリゲネスのテキストそのものの中に跡付け、記述することが、本論文の目的である。なおその際、私は、オリゲネスの力動的な世界観を支えている、神のエネルゲイアについての彼の思想の含蓄を、為し得るかぎりで、余す所なく開示するために、神認識の問題を提起する。

 使用するテキストは、『諸原理について』(ca.229-230)、『ヨハネによる福音注解』(ca.231-248)、『祈りについて』(ca.234-235)、『殉教への勧め』(ca.235-238)、『ローマの信徒への手紙注解』(ca.243-245)、『ケルソスへの反論』(ca.249)、『マタイによる福音注解』(ca.249)等のオリゲネスの主要著作である(39)。

 しかし著作年代および内容、そして真作性の点で、それらを一度にまとめて使用することに、問題がないわけではない。特にオリゲネスの思想的発展を認めようとする研究者(たとえばCh.ビッグ)は、当然、テキストを一括して扱うことに反対している(40)。他方、W.フェルカーやH.ドゥ・リュバック、H.クルゼル等は、オリゲネスの諸著作間にあるいはその内部で、相反する見解や変動が見られるとしても、それはその都度の話題の必要に迫られて、彼の思想のある特定の面が強調されただけである。したがってオリゲネスの思想は、基本的にはすべての著作を通じて変わっていないと主張している(41)。

 しかしオリゲネスの長期間に及ぶ著作、口述活動(約40年)を考慮に入れると、どちらの説にしても、長所もあり短所もあって、決定的な選択はできないと思われる。しかしたとえオリゲネスの思想に、変化があったとしても、これから私が取り上げるオリゲネスの見解に関して言えば、私の見るかぎり、それがどの著作においても、ときとして同じ用語と表現様式をともないながら表現されていることからして、それをオリゲネスの思想全体に通じる1貫した見解と見做すことはできるのである。

 なお、『諸原理について』は、まとまった形では、ルフィヌスによるラテン語訳でしか伝えられていないため、それだけを頼りにオリゲネスの思想を記述すると、オリゲネスの真意を捉え損ねることになりかねない(42)。それは、幾多の写本家たちの手によって転写されて来たオリゲネスのギリシア語文の著作についても少なからず言える(43)。そこでオリゲネスの思想を過たずに記述するために、W.フェルカーおよびH.deリュバックそしてH.クルゼルが提示する研究方法に従って、『諸原理について』を使用する場合には、ナジアンゾスのグレゴリウス(ca.329-ca.389)とバシレイオス(ca.330-379)によって編集されたオリゲネスの『諸原理について』の第3巻の1と第4巻の1から3が、ギリシア語原文で収録されているので、能うかぎりそれを使用し、万全を期してその他のオリゲネスの著作から、平行箇所あるいは関連箇所を併用ないしは参照することにする。しかし同書のうちラテン語訳でしか知られていない箇所については、先ず平行箇所ないしは関連箇所が、ラテン語著作に多数見られ、しかもそれらが、各々、その置かれた文脈に完全に適合しているものに限って、使用することにし、次いで、その他の著作の平行箇所あるいは関連箇所を広く併用ないしは参照することにする。また、ギリシア語原文で残されている他の著作の使用についても、取り扱いは同様とする(44)。

 


内容

 

第1章

神の本性とその問題

第2章

神のエネルゲイア

第1節

神のエネルゲイア

第2節

テオロギアとオイコノミア

第3節

神のデュナミスとエネルゲイア

第3章

神であるデュナミス

第1節

神であるデュナミス

第2節

神の超越と内在

第3節

神の自己啓示の任意性とエネルゲイアそれ自体

第4章

神の一と多

第1節

理性的被造物の創造と離反・転落

第2節

経綸的三位一体論

第3節

神の一と多

 

結論

 

文献目録

 

注は割愛いたしました。