第2節

テオロギアとオイコノミア

 

 私が、前節末の『諸原理について』第1巻2章の12からの引用に際して、「管理する」という日本語を当てたラテン語の dispensare という言葉に対応する言葉は、同書の現存する若干のギリシア語原文(『ピロカリア』)と比較すると、ギリシア語の oivkonomei/n に相当する(7)。それは、V.ロースキィによれば、東方キリスト教会において、古代より伝統的に、神が世界の創造と維持、そしてその救済のために「取り計らう」、「配慮する」、「管理する」といった意味で用いられて来た。殊にその名詞形である oivkonomi,a は、三一の神(Trinitas)ご自身を、その三一的性格および被造的世界との関係において、明らかにしようとする人間の知的営みとしての神学(qeologi,a)とは区別されて、三一の神と被造的世界との具体的で歴史的な関係それ自体(世界の創造、維持、救済の歴史)を、特に神のおん子キリストの受肉と贖罪の働きにおいて、解明しようとする人間の知的営みとして、あるいは、神の、被造的世界に対する具体的な救いの働きかけそのものを表示する言葉として理解されて来たとされる(8)。

 オリゲネスの場合も、彼が、そうした東方キリスト教会の伝統的な考え方の創始者であるとは言わないまでも、やはり彼のテオロギアとオイコノミアについての考え方は、同じ思想的・教義的な伝統の中に位置していると私たちは言うことができるだろう。

 たとえば、オリゲネスは、『ケルソスへの反論』第2巻の71では、テオロギアの動詞形である qeologei/n という言葉を次のように使用している。

 「しかしイエスはまた、私たちに、『おん子の他には誰もおん父を知る者はいない』(Mt.11,27)という言葉と『神を見た者は、いまだかつて誰もいない。神である独り子、おん父のふところにいる方、その方が、(神を)明らかにしたのである』(Jn.1,18)という言葉で、(ご自分を)遣わされた方が誰であるかをお教しえになった。彼は、神について語り(qeologw/n)、神に関する事柄を、ご自分の真正な弟子たちに述べられたのである。私たちは、それらの事柄の諸々の痕跡を『聖書』の中に見出だして、神について考察する(qeologei/n)きっかけを得る。私たちは、ある箇所では、『神は光である。その方の内にはいかなる闇もありません』(I Jn.1,5)という言葉を聞き、またある箇所では、『神は霊である。そして神を礼拝する人たちは、霊と真理とにおいて、その方を礼拝しなければならない』(Jn.4.24)という言葉を聞くのである」。

 オリゲネスは、動詞テオロゲイン(qeologei/n)を、「神に関する事柄」、「(イエスを)遣わされた方が誰であるか」を、明らかにしようとする人間の知的営みを表示する言葉として使用して、その名詞形であるテオロギアが、神に関する事柄を語り明かそうとする人間の知的営みであることを明確に示しているのである(9)。

 他方、オイコノミアについては、同書第6巻の79で、

 「しかし神の不眠の本性を知っておられる言理(ロゴス)が、神は、そのしかるべき時に、宇宙万物の事柄を、ご自分の御心がよしとされるがままに、管理しておられる(oivkonomei/n)、ということを私たちに教えて下さるのだ」。

と述べて、オリゲネスが、オイコノミアの動詞形である oivkonomei/n を、神と被造的な「宇宙万物」との関わりを表示する言葉として使用していることがわかるのである(10)。

 もちろん、私たちは、オリゲネスのそれらの言葉だけでは、彼の思想の中で、人間の知的営みとしてのテオロギアと神の救いの営みを表示するオイコノミアとの相互関係を明確にし得ず、後者が前者の対象領域に含まれているのではなかろうかという疑問を持つ。しかしオリゲネスは、『ヨハネによる福音注解』第2巻34の119以下で、『旧約聖書』に見られる預言者の証しは、『新約聖書』に見られるキリストの真正な弟子たち、すなわち使徒たちの証しに劣らず、キリストの到来(降誕・受肉)とその救いの働き(奇跡、受難、復活)とを、告げ知らせていると述べながら、互いに近接した箇所で、テオロギアとオイコノミアとに言及し、それらを明確に区別しているのである。オリゲネスは次のように言う。

 (205)「そしてたぶん、預言的な証しは、来たるべきキリストだけを宣べ伝え、ただそれだけを私たちに教えて、他のことは何も教えないというのではないでしょう。そればかりか、おん子に対するおん父の関係(sce,sij)と、おん父に対するおん子の関係という偉大なテオロギアを、神の子の偉大さを詳細に物語る使徒たちから学ぶのに劣らず、預言者たちからも――彼らを通して、預言的な証しは、おん子についての事柄を報告するのですが――学ぶことができます」。

(208)「・・・ですから、預言者たちがキリストについて証しするはずがないと思いたい人は、預言者たちの一団から、もっとも偉大なオイコノミに関する事柄を、預言から取り去ったならば、聖霊の鼓舞に由来する預言は、一体どのような偉大さを得たでしょうか」。

 このようにオリゲネスは、「おん子に対するおん父の関係と、おん父に対するおん子の関係という偉大なテオロギア」と言うことによって、神に関する事柄を語り明かす人間の知的営みとしてのテオロギアが、神の三一的性格そのものに関わるものであることを示すと同時に(11)、そうしたテオロギアから、受肉と贖罪において被造的世界に救いをもたらす「救い主のオイコノミア」を区別しているのである。

 したがってテオロギアとオイコノミアという言葉に関して、いま私たちが簡単に見た、オリゲネスのそうした考え方は、V.ロースキィが紹介する、東方キリスト教会の、テオロギアとオイコノミアについての伝統的な考え方に符合し、同じ思想的・教義的な伝統の中に位置していると言わなければならないだろう。

 

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