第1節

神であるデュナミス

 

 さて、オリゲネスは、『諸原理について』第1巻4の3で、神の力・デュナミスの働きの永遠性について説明しながら、次のように述べている。

  「さて、この幸いなそして avrcikh, な、すなわちすべてのものの支配を行なう力(du,namij)を私たちは三位一体の神(trinitas)と呼んでいる。この三位一体の神は善い神であり、すべてのものの慈悲深い父であり、同時に euvergetikh. du,namij et dhmiourgikh, すなわち善い働きをなし創造し、しかも摂理する力(virtus)である。

  それらの神の諸力(virtutes)が、あるときある瞬間に無為であったと考えることは条理を逸したことであり、同時に不敬なことである。というのは、何よりもそれらの力によって神は相応しく認識されるが、それらの力があるとき自らに相応しい諸々の働き(opera)を休んでいたり不動であったといささかなりとも憶測することは許されないからである。実際、神の内にあり、いやむしろ神そのものであるそれらの力が、外部から妨げられると考えてはならない。更にそれらの力を妨げるのもが何もないのに、自らに相応しいことを執り行ない働く(agere et operari)のをいとわしく思ったり、怠っていたりしたと考えてはならないのである」(1)。

 このように、神の力・デュナミスは、万物を支配する力であり、善い働きをなし創造し摂理する力、その善性に従って永遠に働く力である。そしてそれらの多様な働きをなす複数の力によって、神ご自身が相応しく認識される。そればかりかそれらの多様な働きをなす複数の力がまた神ご自身である、とオリゲネスによって言明されているのである。したがってここに述べられたオリゲネスの神認識の見解に従えば、私たちは、多様な働きをなす神の複数の力によって、また、まさしくそれらにおいて、力としての神に直に出会い、神を相応しく知ることができるということになる。

  しかもここで言われている神の複数の力が、活動なき単なる能力ではなくて、万物の創造と管理のオイコノミアの内で、常に働き続ける力であると言われていることは注目に値する。私の知り得るかぎり、オリゲネスが、力・デュナミスと働き・エネルゲイアとを同一視している箇所は、『ローマの信徒への手紙注解』第8巻の2の箇所でしかないため(2)、彼が神の力・デュナミスと神の働き・エネルゲイアとの関係を実際どのように考えていたは、文献の上ではまったく不明である。したがってオリゲネスにとって、神の働く力は、エネルゲイアとしての現実の働きに現われない能力をなお含むのか、それとも、神の働く力は、それに潜在的に含まれると考えられる、何かをなし得る能力を余す所なく実現して、可能性を微塵も残さない働き・エネルゲイアそのものとなっているのかを、私たちは決定することができない。しかし上の引用文で言われている神の複数の力が、万物の創造と管理のオイコノミアの内で、被造物に対して実際に働いている力として捉えてられているかぎり、私たちは、オリゲネスが、少なくともオイコノミアの内に働く神の複数の力を、神の働き・エネルゲイアそのものとして受け取っている、と見做すことができるのである。というのは、オリゲネスが、オイコノミアの内に働く神の力を、何かを現になしている働き・エネルゲイアとして把握していなかったとすれば、彼は、上述の引用文の中で、神の力が働く力であるとは決して言わなかったはずだからである。したがって少なくとも神の力が、オイコノミアの内で実際に働き、エネルゲイアとして捉えられているいているがぎりで、多様な働きをなす複数の力によって、神ご自身が相応しく認識されるということは、オイコノミアの内で多様に働く複数の力のエネルゲイアによって、神ご自身が相応しく認識されるということに他ならない。また、オイコノミアの内で多様の働くそれらの複数の力が、神ご自身であるというこは、オイコノミアの内で多様に働く複数の力のエネルゲイアそのものが、神であるということに他ならないのである。

 かくして神の本性が、有限な人間の精神によっては、未だ認識され得ないとしても、オイコノミアの内で働いている神のデュナミス・エネルゲイアを通して、またそれにおいて、他ならぬ神ご自身が知られ、そして「誰の」ものでもない他ならぬ「神の」エネルゲイア・デュナミスが知られ、こうして神についての「何がしか」の認識が可能であるとオリゲネスは考えている、と私たちは言うことができる。

 

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