第2節

神の超越と内在

  本論文の第2章第1節で明らかにしたように、オリゲネスにとって神は、「神の摂理の諸々の働き(opera)」、「(神の)諸々の働き(opera)の美しさ」あるいは「宇宙万物の巧みさ」、「諸々の被造物の麗しさ」にあった(3)。そうであるとすれば、宇宙万物の創造と管理と救済のオイコノミアの内に働く神は、その本性(fu,sij)と実体(ouvsi,a)とにおいて「比較的な意味ではなく、卓絶した凌駕と言う意味ですべての造られたものを凌駕している」(4)、理性的被造物である人間には近寄り難き超越者として留まりながらも、なおその当のデュナミス・エネルゲイアにおいて、またそういうものとして、宇宙万物に内在して働き、世界に内在する理性的被造物に自らを顕わす、とオリゲネスによって考えられているのでなければならないだろう。

  実際、オリゲネスは、既に本論文の第2章第3節の末尾で引用した『諸原理について』第1巻2の9で、神がそれによって造られたすべてのものを創造し管理するところの「その力は、それらすべてのものといわば結合して一つになり、すべてのものと共にある」と考えて、すべてのものの創造と管理と救いのオイコノミアにおける神の力の被造的世界への内在を主張しているのである。

 また、『諸原理について』第2巻1の3でも、関連する『聖書』の言葉を引用しながら、神の力が宇宙万物に内在するとともに、神ご自身がそれらに内在することを主張して、次のように言う。

  「事実、神がご自分の力(virtus)によって宇宙万物を結び合わせ世界を保持しているのでなければ、どうして『私たちは、神のうちに生き、動き、存在している』(Ac.17.28)と言えるだろうか。更に、神の力が天と地において宇宙万物を満たしているのでなければ、どうして救い主ご自身が宣言しておられるように、『天は神の御座であり、地は神の足台である』(Is.66.1et Mt.5.34)と言えるだろうか」。それは『天も地も、私は満たしているのではないか』(Jr.23.24)と(救い主ご自身が)言っている通りである。したがってすべてのものの生みの親である神が、全世界をご自分の力の充満で満たし維持していることは、私たちが提示した(聖書の)言葉から、何人も難なく承認することと思う」。

 この箇所で、オリゲネスは、神の力・デュナミスが、宇宙万物の管理と維持のオイコノミアにおいて、それに内在してそれを満たしていると考えることによって、神ご自身もまた、宇宙万物に内在していることを表明している。

 更に、『ヨハネによる福音注解』第6巻39の201と201では、オリゲネスは、上記の引用文で用いた『聖書』の言葉、すなわち「天は神の御座であり、地は神の足台である」と「主は言われる、私は天と地とを満たしているではないか」とを引証して、おん父とおん子のいずれかが世界に内在していると主張する。そしてそれに続けて203では、実に、次のようにも言いっているのである。

 「特に、日の昇る所から日の沈む所までこれほどたくさんの星を自らに引き連れている、これほど雄大な天の絶え間ない運動(ki,nhsij)をよく観察することができる人々にとっては、宇宙万物に内在する(evnupa,rcousa)これほど強大でこれほど偉大な力(du,namij)が何であるかについて探求することは価値あることでしょう。というのは、それがおん父とおん子とは異なると敢えて言うことは、たぶん敬虔なことではないでしょうから」。

 このようにオリゲネスは、宇宙万物に内在して「雄大な天の絶え間ない運動」を引き起こす強大で偉大な力をおん父とおん子、すなわち神ご自身であると見做すように『ヨハネによる福音注解』の読者を促していることが、はっきりと読み取れるのである。したがってオリゲネスは、神が、その力において、また、その力として、宇宙万物に内在して働くと考えている、と私たちは言うことができる。

 もっとも、「というのは、それがおん父とおん子とは異なると敢えて言うことは、たぶん敬虔なことではないでしょうから」というオリゲネスの発言からわかるように、この『ヨハネによる福音注解』の引用箇所で、彼は、宇宙万物に内在して天体の運動を引き起こす力が、神ご自身であると見做すように、読者を促しているだけであって、自らそうと断定しているわけではない。したがってそれは、オリゲネスが、神の世界内在を考えていることの証拠にはならないと言われるかもしれない。

 しかしオリゲネスは、

 「では、仮定に基づいて言いましょう。ある人がイエズスを信じているように見えても、神が唯一であり、律法と福音の神であり、その方によって造られたので、『諸々の天は神の栄光を物語り』、(その方の)み手の業(e;rgon)であるので、『大空はその方のみ手の業(poi,hsij)を告げる』ということを信じていないのであれば、その人は信仰の最も重要な頂を欠いていることになるでしょう」(5)。

と述べて、雄大な天空の秩序正しい整然たる運航が、神の働きによるものとして、「神の栄光を物語り」、神の働きを告げ知らせると考えているのである(6)。

 またオリゲネスが、新約聖書『ローマの信徒への手紙』第1章第19・20節の言葉、すなわち、

 「なぜなら神について知り得る事柄は、彼ら(人間)には顕らかだからです。神が、彼らにそれを顕らかに示されたからです。神についての目に見えない事柄、神の永遠の力と神性とは、宇宙万物の創造の時から、造られたものにおいて知られ観られるからです」。

という言葉を好んで引用していることからして、オリゲネスが、被造的世界において、神の力と神性とが顕らかに知られると考えていることがわかる(7)。それらのことから、私たちは、いま問題にしている『ヨハネによる福音注解』の引用箇所に述べられている、「雄大な天の絶え間ない運動」を引き起こす強大で偉大な力も、「神の力と神性と」を顕らかに示すものとして、神の力・働きであると、オリゲネスが考えていると見做すことができる。

 しかしながら「雄大な天の絶え間ない運動」を引き起こす強大で偉大な力が、神の力・働きであるとオリゲネスによって考えられていることがわかるとしても、そのことを明らかにするために引証した以上のオリゲネスの言葉だけでは、オリゲネスが、その力を神ご自身と考えていることの確かな証拠にはならないとも考えられる。しかしオリゲネスは、既に私が本章の第1節で引用した『諸原理について』第1巻4の3では、オイコノミアの内で働く複数の力が、神そのものであると断言しているのであり、また、『ヨハネによる福音注解』第28巻6の49では、人類の救いのオイコノミアにおいて働く、神とその力とを、明らかに同一しているのである。彼は言う、

 「イエズスは、ご自分を愛したのち罪を犯して死んだ者となった人が、神的な力である神によって(tw/| qew/| duna,mei qei,a)生命へと立ち帰るように乞い求められた」。

 このようにオリゲネスは、宇宙万物の創造と管理と救済のオイコノミアの内で働く神の力は、宇宙万物に内在して働く神ご自身であると考えているのである。

  したがって私たちは、宇宙万物の内に働くすべての諸力が神であるとは言えないとしても、いま問題にしている『ヨハネによる福音注解』の引用箇所に述べられた、この「雄大な天の絶え間ない運動」を引き起こし、宇宙万物に内在する「これほど強大でこれほど偉大な力」は――それは、当然、「(神の)諸々の働き(opera)の美しさ」と「諸々の被造物の麗しさ」とを具えているものと、オリゲネスによって考えられているとしなければならないだろう――、すべてのものの創造と管理そして救いのオイコノミアの内にあるものとして捉えられているかぎり、神ご自身であるとオリゲネスによって考えられていると断定することができる。つまり、その箇所の末尾の「というのは、それがおん父とおん子とら」という推測的な表現は、『ヨハネによる福音注解』の読者の探求心を鼓舞するための、オリゲネスの確信に満ちた発言なのである。

  かくしてオリゲネスによれば、神は、その本性において被造的世界を超越していながら、すべてのものの救いのオイコノミアにおいて、多様に働くデュナミス・エネルゲイアとして、被造的世界に内在し、ために、有限な人間の精神に顕らかに知られるのである。

 

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