解説

 

本講話は、GCS33巻・オリゲネス第8巻に収録されている。本講話の編者W.A.Baehrensによれば(序文LX以下)、この『イザヤ書講話』に対応するギリシア語原本は、今のところ知られていない。

また、ヒエロニムスは、既にわたくし朱門が訳出した『エゼキエル書講話』、またその一部を訳出した『エレミア書講話』、さらに彼の著作『著名者列伝』135では、自分自身がこれら二つの講話の訳者であることを明らかにしているが、そこには『イザヤ書講話』への言及がなく、またこの講話自体にも訳者の自己紹介が見当たらない。しかしルフィヌスは、ヒエロニムスに宛てて認めた『弁明』(II, 27)の中で、ヒエロニムスがオリゲネスの『イザヤ書講話』をかなり恣意的に訳出したことを例証している。ルフィヌスは次のように言っている。

最後に『イザヤ書講話』では、・・・あなたは言葉を勝手に付け加えて、原作者の意図をより穏やかに意味に歪曲している。たとえば(オリゲネス)は、「これらの二人のセラフィムは、何でしょうか。私の主なるイエス・キリストと聖霊です」と言っている。しかしあなたは勝手に、「(聖なるかなという)これらの名前が賛美されているからと言って、三位一体の本性が分割されうるとお考えにならないでください」という言葉を付け加えているのである。

このルフィヌスの引用文は、ここに訳出した『イザヤ書講話』の当該個所(I,2)とほとんど同じ言い回しなのである。それは次の通り。

では、これらの二人のセラフィムは、何でしょうか。私の主なるイエスと聖霊です。またあなたは、(聖なるかなという)これらの名前が賛美されているからと言って、三位一体の本性が分割されうるとお考えにならないでください。

さらにBaehrensは、ここに訳出した『イザヤ書講話』の文体や用語とヒエロニムス自身が他の著作で用いている文体や用語との厳密な一致を例証して、これがヒエロニムスの手になることを立証しているのである。ここで、彼が挙げた数多の証拠の中で、特に私の興味を引かせたものを以下に一つだけ紹介しておこう。

ルフィヌスは、彼の諸著作――この中でも特に有名なのは、オリゲネスの『諸原理について』のラテン語訳であろう――の中で、u`po,sutasij(実体)に相当するラテン語としてsubsutantiaを一貫して用いているが、subiacensを一度も用いていない。これに対してヒエロニムスは、後者のsubiacensを頻繁に用いている。そしてBaehrensは、このsubiacensがこの『イザヤ書講話』(III, 1)にも現れていることも、その訳がヒエロニムスの手になる作品であることの証左であるとしているのである。すなわちこう言われている。

「この花は何でしょうか。そしてその根は何でしょうか。両者は、その実体において一つです(unum in ipso subia- centi)」。

こうしてBaehrensは、『イザヤ書講話』のラテン語訳は、ヒエロニムスの手になることは確実であり、それが『著名者列伝』その他で、言及されていないのは、この講話が『著名者列伝』以降(392)に完成したからであると結論している(序文XLVI)

なおBaehrensによれば第九講話は、オリゲネスの作品でも、ヒエロニムス自身の作品でもないとされる。その主な理由を幾つか挙げてみることにする。

@    第九講話は、第六講話と同じく、イザヤとモーセの召命を主題にしていている点で重複している。

A    また第九講話は、講話が始まったというのに、いきなり「しかし『私は見るでしょう[1]』と言っていることについては、私たちは、考えてみれば、理解することができるでしょう」という言葉で終わっている。

B    さらにイザヤとモーセの召命の理解が第九講話と第六講話では正反対である。すなわち第六講話では、「私は誰を遣わそうか。そして誰がその民のところに行くだろうか[2]」という神の呼びかけに対して、イザヤは、進んで「私をお遣わしください」と言ったのに、モーセは同じような呼びかけに対して、「誰か他の人を見つけて、その人をお遣わしください[3]」と言っていた。ただし二人の預言者の応答の違いは、モーセがイザヤのように[4]、この召命に先立って罪から清められていないからだとされている。

   これに対して第九講話では、神からの同じ呼びかけに対して、「預言者(イザヤ)は、その唇を清められたので、覚悟して神の奉仕を受け入れ、次のよう言います。『ご覧ください、私がおります。私をお遣わしください』と。そして彼は、この奉仕のためにより相応しい覚悟ができるよう、モーセの言葉を思い出しました。実際モーセも、同じ言葉を使って言っています。『私をお遣わしください[5]』と」。

 以上の点などによって、第九講話は、オリゲネスを真似た無名の作者の手になるものとされている。


[1] Ps.8,4.

[2] Is.6,8.

[3] Ex.4,13.

[4] Is.6,6.7.

[5] また訳注で既に述べたとおり、モーセは、実際には、このようなことを言っていない。Cf.Ex.4,13.

 

凡例