序文

ヨシュア記講話は、幾つかの断片を除いて、ルフィヌスのラテン語訳でしか残ってない。原書は失われたが、ルフィヌスは本書と士師記講話に関しては、敷衍せずに単純に訳していると言う。したがって、原書の意図を比較的忠実にラテン語に訳していると思われる。本講話は、オリゲネスがカエサリアの教会で行った説教の記録である。彼の他の諸講話と同様に、本講話は、魂の善き牧者としての使命の下に教会の宣教壇から述べたもので、一般の信徒や求道者を含むため、時局に応じた即興的な話題が含まれるとともに、神学論争に左右されない公共的信仰の本質が平易が表明されている。しかし、ヘブライ語の「ヨシュア」は、ギリシア語の「イエス」と表記されるという事実それ自体から推して、このヨシュア記講話が同時にイエス記講話そのものであると期待される。そして、後述するように、本講話には、当時の教会と彼が共有する信仰の核心が率直に表明されており、まさにそれ故にこそ、本書のラテン語訳者ルフィヌスは、他の講話の翻訳とは違い、「そのまま、たいした労苦もなく翻訳した」と言うことができたと思われる。ところで、彼と当時の教会が共有する信仰の核心は、まさに「善き指導者」イエス〓ヨシュアによって為されたパスカである。それは、彼の聖書解釈を導く根本的原理である。

本講話で、オリゲネスを悩ませたのは、@「聖文書は霊感を受けて書かれたものであり」、「聖霊に相応しく解釈されねばならない」という神学的前提(〓信仰箇条)と、A三年周期で一巡する聖文書の朗読箇所を自由に取捨選択できないことにあった。それゆえ、彼は、与えられたいかなる難解な箇所も聖霊に相応しく解釈せねばならず、時に彼の解釈は恣意的であると見なされるのも、そのためである。オリゲネスの聖文書の解釈の基本原則は、諸原理についてに精密に述べられているとおりで、詳論は避ける。しかし、本講話の理解に資する限りでそれを、私なりに敷衍すると、彼の解釈原理は、当時の教会の信仰箇条と一般的な世界観とが許容する範囲内で、聖文書の文字通りの意味を@「形而上学的次元」に、あるいは、A「道徳的次元」に「転位」することによって、「聖霊に相応しい一貫した意味」を発見することである。オリゲネスの比喩的解釈は、この二つの次元が、終末論的時間軸の中で併存している。それは、「影と本体」、「予型・雛形と原型」、「形象・形姿と本体」などという概念枠で包摂することもできる。オリゲネスにとって、地上の出来事の流れは、別次元の出来事を映し出す鏡であった。もちろん、「影と本体」という概念枠において、後者に力点が置かれている。それは、キリストの使信の核心である「死から生・命への移行」、「現世から来世・楽園への移行」とともに、まさにパスカ〓過越として集約することができる。

事実、この「移行」としてのパスカは、オリゲネスの一貫して変わらぬ根本的信念であり、彼に先行するユダヤ人思想家フィロン以来の中近東(アレクサンドリアとカエサリア)に伝統的な概念であった[1]。本稿では、この余りにも自明な故に論じられることのほとんどなかった――あるいは研究者や読者の関心が他の所にあったために顧みられることのなかった――移行としてのパスカを敢えて取り上げ、それがオリゲネスの思想と彼の信仰の主導概念であることを示すことを目指している。しかし、全思想に渡ってそれを後付け、論じることは多大の時間を要するため、本稿では差し当たり、ヨシュア記講話パスカについてという論考に分析の対象を限り、パスカに関するオリゲネスの理解を明らかにする。



[1] 既に、オリゲネスの盛時の直前に、パスカの概念を巡って、当時のキリスト教会を分裂の危機に陥れかねない論争(いわゆる十四日論争)が行われたが、オリゲネスの時代には、教会の大勢は、パスカを過越(移行)を見なす方向で決まっていた。

 

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