キリストの(葡萄の)諸々の房

アレクサンドリアのクレメンスの言及も、土地についての、そのようなキリスト論的象徴体系の一変種として解明することができるだろう。彼は、砂漠にいるヘブライ人に関して、岩から彼らのために飲み物が出てきたことを思い起こす:「その後、聖なる葡萄の木が預言的な房を芽生えさせた。それは、誤謬から安息へ導かれた人たちにとってしるしである。大きな房、それは、私たちのために押し潰されたみ言葉である[1]」。キリストは、ここでは、ヨシュアの探索者たちが発見する約束された土地の(葡萄の)房によって予型されている。上に指摘されたフィロン的象徴は、キリスト論的な転位を受けている。安息、すなわち、約束された土地――キリスト者たちが誤謬の諸々の闇から脱出するとき導かれる土地――は、大きな(葡萄の)房の中に意味されたキリスト自身と同一視されているように見える。安息のテーマは、ヘブライ人への手紙から借用されたものかもしれない。しかし、典礼的な言及は、ユーカリスト的な葡萄酒――誤謬から安息へ導かれる新受洗者たちが文字通りに飲むだろう葡萄酒――に明瞭に現れている。

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引用された諸々のテキストの起源の多様性を我々が考えると、キリストに同一視される約束された土地の象徴体系が急速にキリスト教的伝統の中に流通したと考えることが許される。しかし、この共通の象徴体系は、著作家たちに応じて――そして、しばしば同じ著作家たちによって――異なる諸側面の下で活用されたことを、我々は見る。すなわち、ある時は肉の中に啓示されたキリストが話題にされ(バルナバ)、ある時は復活させられた身体の中のキリスト(テルトゥリアヌス)、聖人たちの集会の中に引き伸ばされたキリスト(バルナバ、テルトゥリアヌス)、あるいは、諸々の秘蹟を通して教会の中で働くキリスト、特にユーカリスト的諸形色の下に現臨するキリスト(ヒッポリュトス、そして疑いもなくバルナバ、テルトゥリアヌス、アレクサンドリアのクレメンス)が話題にされている。土地のテーマのこの転位は、予型論的な地平の真の周遊旅行を走破させる。なぜなら、典礼的な音調の優勢にもかかららず、いわゆる霊的解釈の一切の音階が、ここに素描されているからである:その霊的解釈とは、キリストを、彼が自分の位格的現実の中で成就するために来た諸神秘の中に見る解釈、あるいは、彼が教会の中で、キリスト者たちの中で、秘蹟的な生活の中で実現し続ける諸神秘の中にキリストを見る解釈、また、彼が再臨の日に実現するであろう諸神秘の中にキリストを見る解釈である[2]。それらの解釈の方向は一見すると異なっているように見えるが、深いところで相互に結びついている。なぜなら、それらの各々は、キリストの神秘の一つの側面を表しているからである。

しかしながら、この発展の線上にオリゲネスは位置していない。勿論、彼にも、次のキリスト教的意識の根本的知覚がなかったからではない:すなわちキリストは、諸々の約束の至高の実現者として、ただ彼一人だけで――現在の諸々の善の全体を既に構成していたように――未来の諸々の善の遺産[嗣業地]を構成していたと。オリゲネスはその有名になった表現の中でキリストについて言っている:すなわち、キリストは、「王国そのもの」(autobasileia)であると。キリストは、約束された王国そのものであった。したがって彼は、約束された土地だった[3]

しかしオリゲネスは、土地の典礼的なテーマにほとんど敏感でないように見える。また、他方で彼は、カナンへの進入に関する聖書的な諸々の物語を注解するとき、別の解釈の動線に従っている:すなわち彼が眼差しを向けるのは、ヨシュア(イエス)である。ヨシュア(イエス)は、引力の中心であり、その救い主の名前との類似によってキリストの形象であり、(約束された)土地の中への導き手としての諸々の役務によってキリストの形象である。人は、約束された土地とヨシュアを同じ比喩的な総体の中に維持することはできなかった――両者はともにキリストの象徴である。約束された土地の特別な予型論は、ヨシュアの経歴の外側でしか構成できなかった。すなわち、ヨシュアの形象が支配する総体の中では、約束された土地は、キリストによって獲得され諸々の神的な賜物を表わさねばならなかった。



[1] II Pedag.,II,19,3(GCS,12,167).

[2] Cf.Daniélou,<<Les divers sens de l'Écriture dans la tradition chrétienne primitive>>, Eph.Theol.Lov.,XXIV (1948), p.119-126.

[3] Com.Mt.18,23(GSC 40, 289). 彼は、この同じテキストの中で、キリストが「知恵そのもの」(auvtosofi,a)、「正義そのもの」(auvtodikaiosu,nh)、「真理そのもの」(auvtoalh,qeia)であることを説明している。

 

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