今日(きょう)

この予型論の諸々の根を見出すために、疑いもなく、ヘブライ人への手紙(3,7-4,11)に遡らねばならない。この偉大なテキストは、オリゲネスによって比較的に稀にしか引用されない。しかしそれは、砂漠の横断と約束された土地の中への進入とに関する形象的解釈の伝統を確かに支配している。

砂漠の世代は、休息に入ることができなかった。ところで、この休息の中に、詩編作者が述べたように、人は「今日」入ることができる。「今日、あなた方は、あなた方の心を固くしてはならない――砂漠での試練の日のように」(Heb.3,7-8)。「兄弟たちよ、あなた方は、あなた方の誰か一人の中に、生ける神を捨てる不信仰な悪しき心が見いだされないように注意しなさい。むしろあなた方は、今日(という言葉)を述べることができる限り、毎日、互いに励まし合いなさい――あなた方の中の誰一人として、罪に唆されて頑なにならないようにするために。なぜなら私たちは、キリストの参与者たちになっているからです」(3,12-14)。したがって、「今日」は、神によって定められた新しい日を表している(4,7)。それは、「諸々の天の中に深く入り込んだ神の子イエス」に続いて休息の中に入るために与えられた猶予期間である。「なぜなら、もしもイエス(ヨシュア)が彼らのために休息をもたらしたとすれば、神は、続く個所の中で、別の日について語らなかったでしょう」(4,8)

ここで強調されているのは、約束された土地の終末論的性格でなく、その現存の性格である。約束された土地の神秘は、キリスト者たちがそこに進入することのできる特権的な期間と同じ広がりを持つ。イエスの祭司職は、神の民に「新しい今日」――ヌンの子ヨシュアが彼らにもたらすことのできなかった安息日の休息――を開く。キリストと諸々の約束の土地の中への今日的な進入との間に、異論の余地なき絆が確立されている。この教えは、オリゲネスの解釈において決定的に重要になろう。

 

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