約束された土地の二律背反

実際、ヨシュア記講話は、オリゲネスをして、約束された土地のパラドクスを鮮鋭に提起させていた。その土地は、決定的な賜物であると同時に、ヨシュアと神の民にとって諸々の戦闘の恒常的な座であった。()文書は言っていた:「土地は、諸々の戦闘から休んだ」、「ヨシュアは一切の土地を奪取した」と。ところが、「まだ、占有しなければならない多くの土地が残っている」と書かれていた。()文書は、諸々の矛盾を含むことができなかった。したがって、そのことは、神秘の形象だった。その最初の到来の中で、イエスは、自分のみ言葉を土地の上に広めるために来ていた。そして彼は、その種子の力によってその土地を奪い取っていた。しかし彼は、まだ、自分のすべての敵を自分の諸々の足の脚台にしていなかった(Hom.16,3)。その最初の到来の中で、キリスト・イエスは、「第二の到来が完成とその完成の充実へと導くだろうところの多くの事柄の影」を与えていた(Hom.8,4 et cf.Hom.3,2)。キリスト者が入っていた約束された土地は、既に征服されていた。けれども、それは毎日、征服されねばならなかった。明らかに二律背反的なこのヴィジョンが、ヨシュア記講話の霊的解釈を支配している。

オリゲネスは、月の第十一の日における土地の中への進入に関して、そのヴィジョンを明瞭に表明している。十という数字は、完成の象徴である。諸々の約束の土地の中への進入は、「完成の幸運の中へ」進入することである。しかし、その日はどのようなものか。「その日は、私たちがこの世界で生きる日である。私たちの現在の一切の生活は、たった一日の中で象徴される。また私たちは、その神秘によって、私たちの義の諸々の行いと諸々の業を明日に延ばすべきでなく、今日――すなわち私たちが生きている限り、私たちがこの世界の中に留まっている限り――、急いで成し遂げるべきことを学ぶ。なぜならすべての行いは、完成を目標にしているからです」(Hom.4,4)。オリゲネスにとってこの第十の日は、明らかに、ヘブライ人への手紙の「今日」である――その「今日」は、土地の安息の中への進入を表していた。それは、キリスト教的生活の象徴である。

 

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