結論

オリゲネスとともに、ヨシュアの固有なテーマに与えられた独創的な展開は閉じる。そのテーマは、以後も知られ活用された。オリゲネスによって日陰の中に残された他のエピソードは、他の著作家の許で日の目を見た[1]。しかし、師の広大な総合に比肩できる者は、おそらく誰もいないだろう。そして大部分の者たちは、彼から着想を得るだろう。

オリゲネス以後のヨシュアの予型論を一瞥すると、彼の解釈の伝統の連続性――各人が機に応じて、各人の諸々の傾向に即して汲み出した解釈の伝統の連続性――を確認することができる。たとえば、カエサレアのエウセビオスの許で、護教的配慮は、聖書の中のイエスの名前にさらに大きな重要性を与えるだろう[2];エルサレムのキュリロスは、ヨシュアの経歴の上に、古典的な要理教育の小さなレジュメを置いている[3];ニュッサのグレゴリオスは、キリスト者にヨルダン川の霊的な過越を熱心に勧める[4]。他方、比喩的解釈の敵手ヨハネ・クリュゾストモスは、改悛するラハブに関して、ヨシュアの雛形に言及している[5]。アレクサンドリアのキュリロスは、さらに多様な側面を提示している[6]。もしも我々がいま、ヨシュア記の一連の諸々の注解に頼るなら、テオドレトスの諸々の注解[7]とプロコピオスの諸々の注解[8]は、貴重である。なぜなら、それらは伝統の実質を要約しているからである。ところで、彼らはしばしば――特にプロコピオスは――、オリゲネスのコピーないしは忠実な要約である。それゆえ人は、ルフィヌスの翻訳の正確さを評価するために、プロコピオスを利用することができる。それらの注解によって提起される問題は、オリゲネスの許に見いだせない章句があり、それらの出典である。しかし人は、イエスの人となりについて新しいことを何も見出さない。かなり後になって、Théodoret Prodromeは、ヨシュア記について、青白く生彩を欠いた幾つかの断章を作成している[9]それらすべての証言は、オリゲネスの少なくとも間接的な影響とともに、東方的伝統の広がりと持続を確証している。

西方における調査も、ヨシュアの予型論の影響の堅固さを示すだろう。しかしヒラリウスを除くと[10]、著名人だけを挙げれば、その影響は、ヒエロニムス[11]やアンブロシウス[12]やアウグスティヌス[13]の許で言及の状態でしか見いだされない。それに対し人は、興味深いことに、もっと後代の一群の解釈者たち――尊者ベーダ[14]からラバン・マウル[15]まで――を見出すだろう。彼らは、東方的解釈の影響を明らかに受けており、時としてルフィヌスの翻訳を逐語的に利用している[16]。それは次のことの証拠である:すなわち、ヨシュアの予型論の影響が、西方において古来の伝統として、しかしほとんど利用されずに保たれていたこと、そして、五世紀以後にそのテーマが大幅に取り上げられたことは、翻訳家たちの影響によるということ。なぜなら翻訳家たちは、東方的諸注解、取り分けオリゲネスの諸注解を西方に知らしめたからである[17]。しかし、博学な修道士たちの許でのこのヨシュアのテーマの長命は、幾らか人為的なものであると、我々は見ている。その予型論は、生きた伝統の中に含まれていない。

それに対し、約束され土地のテーマは、加入儀礼を済ませた若干の者たちに限定されない。ヨシュアの一切の予型論によって、そして、教父たちの無数の言及によって、約束された土地のテーマは、我々が指摘したように、非常に早い段階から、典礼的な伝統の一部に、したがって教会の生ける遺産の一部になっている。人は現在のローマ典礼を参照しただけでも、疑いもなく非常に古い聖務日課の中にそれが表されている:「主はあなた方を、乳と蜜の流れる土地の中に案内した」と、復活節の月曜日の入祭唱は歌っている。引き続く木曜日の奉献文も、それを木霊している。それは、諸々の洗礼式の翌日の再生者たちに同伴する諸々の讃歌の――世代から世代への――繰り返しである。死者のためのミサも、「かつてあなたがアブラハムと彼の一族に約束した聖なる光の中で」、信者たちが死から生へと過ぎ越すという消し難い意識を反映している。

今日でも教会は、アブラハムに約束された嗣業地に進入するように、その信者たちを招いている。しかし教会は、歴史の数々の異常な歩みに対し、どうして諸々の目を開かないでいることができようか。またしても、約束された土地の探求は一つのテーマ(論題)としてでなく、人々の心の最内奥で生きられる現実として現れ得る。このパレスチナの中で、すなわち、かつてオリゲネスがユダヤ人たちに天を見上げ、そこに真のエルサレムを見出すように懇願したこのパレスチナの中で (Hom.17,1)、「長子たちの民」(いまのユダヤ人)は、太古のエルサレムに、神殿の山とダビデの町に向いたまま征服と努力によって土地を取り戻した――ヨシュアの時代と同じように。「形象」は、自らの生存権を主張し、歴史の現実によって無効にされたことはないと抗議する。オリゲネスなら、この形象の再来について何を考えただろうかと自問するのは虚しいことだろうか。それは彼にとって生きた時代錯誤なのか。疑いもなく彼は、歴史的な諸々の偶発事のあちら側に、諸事実の永遠の意味を識別しようとしただろう。ユダヤの民のこの覚醒――世界の歴史を通じて再燃する諸々のメシア信仰の恒常的な象徴――の中に、オリゲネスならおそらく、諸々の力の二重の流れを知覚しただろう:すなわち、「霊の諸々の欲求に対して戦う肉の諸々の欲求」の流れ。形象は、真理に逆らって立ち、それのみが存在を主張する。しかしオリゲネスはまた、「影と謎」の諸々の町を求める人間たちの永遠の探求を通して、郷愁のしるしと神秘の予感を認めただろう。



[1] たとえば、ヨルダンの12個の石(Jos,4,1-10)は、十二使徒を意味した――Gregoire de Nysse (In Baptsimum Chrsiti, PG.46, 592A); Cyrille d'Alexandrie (In Joan.,ev.,III, PG,73, 517C); Theodoret (Quaest. in Hosue, 3; PG, 80, 465A); Hilaere (Traite des Mysteres, II,6; SC, p.153)。しかし、そうしたエピソードについて、問題がないわけではない。連続講話の中でオリゲネスが、象徴的な意味のそれほど豊かなエピソードを飛ばすことはあり得ない。彼は、知られざる状況の故にそれを本当に扱わなかったのか、それとも、その個所が我々に伝わらなかったのか。

[2] Demonstration evengelique,IV,17; GCS, 23, 195-196; HE.I,3,3-4.

[3] Catechese,10,11:De uno Domino Jesu Christo; PG, 33, 676B- 677A.

[4] 「あなたは、ヨハネの呼びかけに応えてではなく、キリストの呼びかけに応えて、ヨルダン川の方に急行してください。ヌンのヨシュアを模倣して、彼が(契約の)箱を担いだように、福音を担いで下さい。あなたは、荒れ野すなわち罪を捨ててください。あなたは、ヨルダン川を渡ってください。あなたは、キリストに即して命に向かってください。(人を)喜ばせる諸々の実りに満ちた土地、諸々の約束に即して乳と蜜をながす土地に向かってください。エリコすなわち古い諸々の習慣を覆してください」(De Baptismo, PG 46, 420C-421A; In Baptsmum Christi, PG 46, 592A)

[5] De Poenitentia hom.,7,5; PG 49, 330-331.

[6] Par exemple sur Jéricho: In Hoan.ev.II,IV,VI;PG, 73, 345C; 621D; 973D. Sur la cessation de la manne: ibid.,III; PG,73,517. Sur la circoncision de Josué: ibid.,IV; PG,73, 696-700. Sur la terre et le repos: ibid.,PG.73,680. Sur les explorateurs de la Terre promise (en dépendence d'Origène): Glaphyrorum in Deut.liber, PG,69,605-616. Sur l'élection de Josué et les victoires de Josué: ibid.,669-673.

[7] PG,80,457-673.

[8] PG,87:pars1,991-1042.

[9] PG,133, 1133-1137.

[10] Traité des mustères, II,5-10 sur Josué, le passage du Jourdain, Rhab et Jéricho. Mais Hilaire a-t-il subi l'influence directe d'Origèn? Cela reste en question; cf.Brisson, Introdution, SC,p.51-55.

[11] Com.in Aggaeum,1,1; PL,25,1391D.

[12] In Ps.47 enarr.,21; PL,14,1154B. De Fide, 5,12; PL,16,651D.

[13] Contra Faustum Manichaeum,16,19; PL,42,327-328. Il est significatif que dans ses commentaires sur le livre de Josué, Augustin ignore complètemen les interprétations d'Origène(Quaest.in Heptateucum, PL, 537- 542; 775-824).

[14] Quaest.super Jesu Nave librum, PL,93,417-422.

[15] Com.in libr.Josue, PL,108,1001-1108.

[16] Bèdeの場合、彼の注解は非常に短いが、その幾つかの章は、オリゲネスの講話の忠実な要約になっている。たとえば、彼の3; 4; 10; 11は、それぞれ、Hom.4,2; 3,1; 9,6-7; 10,1に対応している。Raban Maurは、ルフィヌスの翻訳の一部を完全に写しており、しばしばEx Adamanitoという前置きさえしている。しかし、東方からの彼への影響は、ルフィヌス以外の経路を伝っても来ている。なぜなら彼は、ルフィヌスの翻訳には見出されない諸々のテーマに言及しているからである。たとえば、十二使徒を現わす十二の石、あるいは、エリコのテーマ――「その名前は月を意味する。すなわちそれは、悪霊の諸々の闇を表している」:Procope, PG, 87 (pars 1), 1016B. Cf. Bède, 7; PL,93, 419 B. Rban Maur, 7; PL, 108, 1021C.

[17] Sur l'Origène latin et << la lecture d'Origène au Moyen Age>>, voir les pages du R.P.de Lubac dans Exégèse mèdiévale, Les quatre sens de l'Écriture, Parsis, 1959, t.I, p.221sv.

 

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