オリゲネスの天使論の幾つかの側面

ヨシュア記講話の多くの個所が、オリゲネスの天使論のあまり知られていない諸側面に関わっている。それらは、然るべき場所を取り上げられたみ使いたち――諸々の天の国の中で彼らの場所を取らねばならない――、諸々の悪徳のみ使いたち、魂の諸々の力としてのみ使いたちである。明らかにほとんど整合性のないそれらの多様な考え方を如何に説明すべきか。

最初の断言は、現代の諸々の精神をひどく狼狽させる:すなわち、諸々の天の中で、転落したみ使いたちの場所を取らねばならず、悪霊たちが所有している嗣業地を奪い取り、彼らをみ国から追い出さねばならない(Hom.1,6; 12,1; cf.Hom.Nb.7,5)。そこでは、単なる空想が問題になっているように思われない。その断言は、オリゲネスの人間論と宇宙論を参照して解明されるべきである。多様な霊たち――み使いたちと人間たち――の間に、本性の違いは存在せず、どうやら精妙さに大小の違いがある物体性の違いが存在する;そして諸々の天の国も、ある程度の物質性に参与している。それゆえ、人間たちである転落した(冷却した)諸々の霊が、死後に天的な諸々の場所――転落したみ使いたちが占領していた諸々の場所――にまで昇り、み国の中で彼らにの場所を取ることが可能である。

しかしそれでは、それらの転落した霊たちの現在の住居はどのようなものか。人はここで、オリゲネスの思想の中に、ある程度の乱れを感じる。オリゲネスは一般に、彼らをエフェソ6,12(et cf.2,2)に従って、「諸々の天の中に」(in coelestibusevn toi/j evpourani,oij)、すなわち、空中の諸々の領域の中に位置づけている。しかし、この位置づけの不正確な性格が、それらの霊が今でもみ国の中で彼らの場所を所有しているかどうかを知る問題を曖昧さの中に残すことを彼に許している[1]。いずれにせよ、それらの悪霊たちは古代人たちの一般的な信仰に従って、人間たちの回りを徘徊し、したがって土地を取り巻く大気の諸々の領域の中でさまよっているのは確かである[2]。このようにして人は、この世界の君主の現実的な激烈さを――常に新たにされる諸々の試練の攻撃と諸々の迫害の猛威との中で――明示していた日毎の体験を説明することができた。

しかしながら、()書の幾つかのテキストは、深淵の中で既に鎖で繋がれている悪霊を示していた(2P.2,4;Jude6)。本講話の中でオリゲネスは、それらのテキストを明白に引用していないが、その教えは彼の思想に現前している。オリゲネスは、猶予を嘆願する悪霊たちに、キリストによってそれが与えられたことを強調する(Hom.15,6)。こうして彼は、ユスティノス(Apol.II,7-8)やタチアノス(Orat.14)と同様に、サタンが決定的に地獄に投げ込まれる瞬間を最後の審判まで先送りすることができる(Hom.8,5)。しかし、悪霊たちにお気に入りの住居は、言うまでもなく混沌(ca,oj: abime, ténèbres; Hom.8,2.7)である。毎日、悪霊たちの新たな徴集兵たちは、聖人たちの諸々の勝利によってそこへ押し返されている(Hom.15,6)。まさに聖人たちは、彼らが不当に占領していた天的な諸々の国から彼らを追放する。聖人たちによるその戦闘は、土地の上で展開する。なぜならオリゲネスは、絶えずキリスト者たちにその戦いを勧めているからである。しかしそれは、天的な諸々の領域――魂たちは死後にそれらの領域に昇る――の中でも展開する。一番もっともらしい解釈によれば、まさにそれらの領域の中でこそ、旧約の父祖たちは自分たちの諸々の祈りによって自分たちの兄弟たちを助け、彼らとともに戦い、サタンを諸々の深淵の中に投げ込む[3]。それらの領域の中でこそ、殉教者たちは悪霊どもに対し、疑い得ない諸々の勝利を勝ち取る[4]。諸国の民は、そのようにして少しずつ解放され、信仰に至ることができる(Hom.15,6)。なぜならJabinと彼の一味が諸国の民に君臨していたからである(Hom.14,2; 9,10)。それらの敵対的な諸々の力は、依然として諸々の迫害を鼓舞している(Hom.9,10)。しかし、キリスト者たちによって繰り返される諸々の勝利は、人間たちに対する彼らの力を弱める――彼らを黄泉に押しやることによって。

諸々の迫害は外的なものに留まっていた。しかし、悪霊的な諸々の試練の存続は、オリゲネスの許で補足的なヴィジョン――すなわち、人間的魂のまさに内部における悪霊どもの現存――を助成したにちがいない。悪霊たちが人間的存在を住居にしたことを、福音の「(悪霊に)憑かれた者たち」は、十分に示していた:「私の名はレギオンである[5]」。征服すべき王国、聖化すべき土地、それは何よりも私たちの一切の魂だった。そして、それを占領していた不正のすべての王たち、すなわち、悪霊どもを私たちの魂から追い払わなければならなかった。この小さな宇宙の中で、霊的な戦争が繰り広げられていた。オリゲネスはそのようにして、魂の悪しき諸傾向と、それらを引き起こす悪霊たちを混同する方向に導かれることができた。

Dom Bettencourtは、炯眼な一つの分析の中で、オリゲネスのヨシュア記講話(1,6;12,3;15,4-5)の中やオリゲネスの許の他の個所に[6]、我々が幾度も現れるの見る諸々の悪徳の使いたちの諸々の源泉が何であり得たかを探求した。その過程で、古代人たちの特性として幾つかの諸々の信憑を指摘し、それらの(源泉の)場所として、諸々の錬金術的な考え方――すなわち、魂にその誕生からつきまとう悪霊たちは、魂の中に入り込み、それを苦しめることができるという諸々の錬金術的な考え方(Corp.Herm.16,15; 9,3)――を挙げるとともに、特にストア派の諸々の影響に着目する。ストア派の唯物論が、我々には考え難い物質的〓非物質的な存在者たちの実在への信仰を実質的に助長していたと、彼は言う。物質的な魂から、命の様々な表示が発出していた(たとえば、主導能力から七つの霊が出ていた)。同じ仕方で、諸々の悪徳と諸々の善徳、魂の諸々の産物が、諸々の生ける存在者として着想されていた。しかもそれらは、(それらと)同じエーテル的な物体性を持つとされた悪霊たちと混同されることができた[7]

しかし、Dom Bettencourtがやはり示しているように、ユダヤ教が、さらに確実な諸々の源泉をオリゲネスに提供していた。実際オリゲネスはHom.15,6で、明白にTestaments des XII Patriarchesを参照する。本質的なテキストは、Testamen de Ruben2,1-3,7のテキストである。それにTest.Juda 16,1が結び付けられねばならない:その中で悪霊たちは、それぞれはっきりと一つの悪徳の中で特定されている。Pasteur d'Hermasの第5章にも、諸々の似た考え方を見出すのは興味深い:邪悪の霊たちは魂を占領し、聖なるみ使いは窮屈に感じ、もはや魂の中に留まることができない、と[8]

オリゲネスが人間に内的であると同時に外的な悪霊たちを考えることができた事態は、こうして説明される。彼は、サタンを長とする悪霊たちのヒエラルキーを考案する(Hom.15,5)。それらの悪霊たちは土地を駆け巡る。そして、それらの各々が、特定の悪徳の扇動者である。しかし彼は、それらを人間に内的なものとしても描く――ある時は彼らは、我々の諸々の悪徳の土台の上に自分たちの王国を築いた(Hom.14,1)、ある時は彼らは、それらの悪徳と最終的に混同されたものとして現れる。人間中で諸々の悪い行動によって増殖する悪しき諸々の力は、罪を栄養分とするが、徳の実践の前に苦しみ、その力を失う(Hom.8,7; 24,1)

同じ諸々の考察は、第20講話の冒頭――それもやはり、フィロカリアによっても伝えられている――を解明するのに貢献する。この冒頭は、魂の諸々の力に対する(聖文)書の役割を述べている。その役割はあまりにも内的なため、人間の精神は意識することができないが、魂に内在する友好的な諸々の力と敵対的な諸々の力との間で全面的に演じられる。聖なる諸々の文書の朗読は、蛇たちをまどろませる呪文のように、魂の悪しき霊たちを眠らせる(Hom.20)。他方それは、魂の諸々の善き力、すなわち、魂に内的な善きみ使いたちを強める。それは、詩編102(103),1で言われているとおりである:「私の中にある一切が、主を祝福するように」。したがって魂は、同じくHom8,6が示唆するように、自分たちの餌食を保持しようとする悪霊たちによって住まわれるばかりでなく、魂の諸々の力そのものと混同されるに至るみ使いたちによっても住まわれる[9]

したがって我々は、ここで、諸々の複雑な考え方の面前にいる。それらを相互に調停させるのは容易でなく、守護のみ使いたちや守護の悪霊たちについてのよく知られた教説と調停させるのも容易でない。どうやらオリゲネスは、多様な教説――彼自身は疑いもなく、それらを一つの体系的な全体に束ねていない――に依存しているように見える。



[1] Hom.1,612,1は、その点で矛盾している。

[2] Cf.F.CUmont, Recherches sur le symbolisme funéraire des Romains, Paris, 1942, p.115; pour les croyance chrétiennes, p.143, n.6-7. Cf.aussi H.-I.Marou, <<Un ange déchu, un ange pourtant>>, dans Satan, Études Carmélitaines, Paris 1948, p.28-43. Pour les localisations origéniennes: l'air qui entoure la terre, le désert, les ténèbres pures, les eaux insipides et le vent froid de l'Aqion, voir Bet.,p.49.

[3] Cf.Hom.Nb.26,6-7; Hom.16,5.

[4] Cf.Contre Celse, 8,44.

[5] Hom.15,6. 悪魔払いの儀式への暗示については、たとえばHom.24,1を参照せよ。

[6] Hom.Jos.1,6; 12,3; 15,4-5; Com.Rn.10,37; Hom.Lv.12,7; Hom.Nb.10,37; 27,8.

[7] Bett.,p.137-140.

[8] それらの考え方への関心は、二つの霊のクムラン教団の教説によって喚起されたことを人は知っている。Cf.J.P.Audet, <<Affinités littéraires et doctrinales du Manuel de Discipline>>, RB.LX (1953), p.61-66.

[9] On pourait rapproher la doctrine rabbinique des foules d'ages que Dieu accord à qui accomplit ses commandements, cf.Str.Bill., 1, 781-782. Abeson y voit comme une possession angélique et un mode d'immanence divine, J.Abelson, the immanence of God in tabbinical Leterature, Londres ,1912, p.128.

 

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