魂の牧者

したがってオリゲネスの解釈は、当時の諸々の根本的関心によって方向づけられている。ヨシュア記講話は、こうして三世紀半ばのパレスチナのキリスト教的環境に幾らかの光を照射する。それらの講話は、その時代の内的な諸困難を垣間見させてくれる。羊の群れの最も小さな牝羊に責任を持つに牧者に委ねられた羊の群れを守らねばならなかった(Hom.7,6; cf.21,1);ソフィストたちの「黄金の舌」を引き抜くき(Hom.7,7)、神のみ言葉の角笛を鳴らすことによって信仰者の凡庸さに揺さぶりを掛け(Hom.1,7)、そして、あまりにも頻繁に冷却する聖職者たちの中に(信仰の)炎を再び燃え上がらせねばならなかった(Hom.4,2; 7,6)。善への愛によってよりも、罰の恐怖によって動かされる信者たちや、真っ先に礼拝に姿を現すが、非難すべき行いを決して改めない表向きの熱心者たちにも、明敏な諸々の発言がある(Hom.9,7; 10,3)。精神のそのような状態の叙述は、我々が別の個所から知る状況――すなわち、デキウスの迫害がキリスト者たちを突然に襲い、無数の背教の原因を成したときの紛れもない弛緩に関する状況――によく対応している。

そのような聴衆に対して、オリゲネスは、適切な滋養物を配る。それは、強者たちの肉ではなく、中間者たちの野菜や最も弱い者たちの乳である。聖文書の注釈は、信者たちを照らし、改心へと導きくべきである。それは、実践的な建徳の目標を追求する。したがってオリゲネスは、キリスト教的な民のに向けられたそれらの講話の中で、形而上学的な諸々の思弁から遠く隔てられた単純で伝統的な教えに依拠する。彼が、難解な諸問題や余り知られていない諸問題に着手するとすれば、それは、朗読されたテキストそれ自体が彼をしてそれらの問題を提起せしめるからであり、信者たちの口に上った問題に答えるためである。たとえば、悪霊の現今の力への対抗が、オリゲネスをして、二つの臨在の問題や歴史のキリスト教的な意味についての問題を提起させる(Hom.8,4)

オリゲネスの雄弁の意図的な単純さにもかかわらず、それらの講話の幾つかの個所は、彼の哲学的な体系の総体を参照しなければ解明されないだろう――たとえば、彼の諸々の宇宙論的な考え方に訴えることによって(Hom.23,3-4)、あるいは、終末の考え方に訴えることによって(Hom.10,2-3)。しかしながら、天的な土地という大テーマは別にして、それらは概して、単純な言及に留まっている。神学者は、決してみずからの諸権利を失わない:たとえば、Hom.3,2の三位一体的な美しいテキストや、キリストの受肉を窓を通して差し込む光にたとえる個所。しかし、それらの神学的見解は、それ自体で扱われることはない。それらは、霊的生活を支え照らすことを本質的な目的にしている。

霊的な教えへのそうした配慮は、説教者としてのオリゲネスにとって第一の務めである。速記された諸々の発言の生硬さや比喩的展開の味気なさにもかかわらず、彼のこの福音宣教の中には、使徒の魂――改心させることのへの彼の情熱と、諸々の心を照らすことへの彼の飽くなき熱意、いつも(人々を)脅かす悪を前にした彼の不安、彼の主の勝利への彼の不屈の希望、キリスト教の民を前にした彼の諸々の責任への鋭敏な感覚、使徒たちの供託物を無事に護ることへの熱意、教会への熱情的な愛着――が現れ出ている[1]。しかしながら、オリゲネスの魂の秘密を我々にいっそう明らかにするのは、彼の宗教的な熱意である:彼は出エジプト記で、感情のどれほどの叫びを伴って、ヨシュアの名前を受け取ったか(Hom.Ex.11,3)。我々の第一講話を開扉する言葉の壮麗さに匹敵するものは、おそらくないだろう:「イエスという名前は、一切の名前に優る名前です」と。本講話のほとんどすべてのページで、イエスと同名のこの歴史的人物――ヌンの子ヨシュア、神の子イエスの形象――の考察を通して、キリストへの愛が垣間見られる。内的な動きは、天的な諸々の賜物の追求へとオリゲネスを誘い込む。「ヨルダン川を急いで渡らなければなりません」(Hom.5,1)。それは、神を渇望する魂の跳躍である。



[1] Cf.Hom.3,5; 7,6.

 

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