柔和な者の地

「モーセの死後、神はヨシュアを通して民に土地を与えました。この土地は何でしょうか。それは明らかに、主が次のように行っている土地です:柔和な人たちは幸いです。なぜなら、彼らは土地を受け継ぐだろうと」(Hom.2,2)

マタイ5.5の至福は、オリゲネスにおける(聖なる)土地の解釈の聖書的な諸々の基礎の一つである。実際には、この(マタイの)テキストは、ヨシュア記講話の中にほとんど現れていない[1]――なぜなら、ヨシュアの書の諸々の戦記は、柔和な者たちの至福の言及にあまり資さないからである。しかし、ヨシュアによって約束された土地への言及は、オリゲネスの他の数々の作品の中に現れている[2]。実にオリゲネスは、ヨシュアの書を注解する以前に、イエス自身の福音宣教の上に、信者たちに開かれた諸々の天の王国へのメシア的土地の転位を基礎づけていた。

イエスの使信は、土地を所有することになる柔和な人たち(ヘブライ語でanawim)についての詩編作者の句(Ps.36,11)を再び取り上げた。しかし彼は――ユダヤ的な希望を諸々の至福の展望と統合することによって――その句をその展望の中に挿入した:「幸いである、精神において貧しい人たち、純粋な人たち、平和をもたらす人たち」。キリストがご自分の弟子たちの心を向かわせていたのは、霊的な王国、聖性と正義と兄弟愛が浸透し尽くした土地である。本質的なことは、この土地の聖なる性格であって、その位置決定ではなかった。

二つの契約(の書)の回転軸としての(マタイの)この鍵テキストの中で、土地の表象は、具体的な表象や寓意を完全に剥ぎ取られた。約束された土地――諸々の天の王国と併置された土地――は、キリスト者たちにとって、イエスの王国になった。彼らがこの土地について抱く考え方は、彼らの固有な世界観と終末観によって変わることになった。イエスの言葉は、ユダヤ教の最も霊的な方向の中で聖化されたこの土地についての考え方しか押しつけなかった。しかし彼の言葉は、弟子たちにとって、表現の中ではなく、イエスの位格への参照によってすべてを変えていた。爾後、その土地は、キリストの諸々の約束と諸々の賜物とから不可分になるだろう。

キリスト教的な省察は、オリゲネス以前にも、約束された土地のテーマについて行われた――ユダヤ的なテーマを単に「キリスト教化する」ことによって、あるいは、各自に固有な才能に応じて、まったく独創的な諸々の解釈を創造することによって。



[1] Hom.2,2; 5,1; 7,2; 23,4(chaîne de Procope); 25,4.

[2] De Princ.,II,3,6; 3,6; III,6,8; Hom.Ps36,2,4; 2,6; Hom.Nb.1,3; 26,5.

 

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