第三講話

「しかし、私は貧弱な声で、舌は鈍重です[1]」と書かれていることについて。

 

 モーセが、エジプトの中にいて、「エジプト人たちの一切の知恵によって養育されている[2]」間は、貧弱な声でなく、鈍重な舌ではありませんでしたし、身分が寡黙であるとは告白していません。実際、彼は、エジプト人たちの許にいる限りは、響き渡る声と無比の雄弁を持っていました。ところが彼は、神の声を聴き始め、神的な諸々の話しを受け取り始めたとき、自分の貧相で貧弱な声を感知し、自分の舌が鈍重で鈍感であることを知解します。彼は、「元において神と共にあった[3]」真のみ言葉を覚知し始めたとき、自分が口が利けないことを告白します。

しかし、私たちが言っていることがより容易に注目され得るために、私たちは次のような類似を使いましょう。理性的な人間は、無知で無学であるとしても、口の利けない動物たちに比較されるなら、理性と声の欠如したものたちと比較して雄弁であると見られるでしょう。ところが彼は、教養があり雄弁な男たちに対比されるなら、寡黙で口が利けないように見られるでしょう。しかし人が、神的なみ言葉それ自体を観想し、神的な知恵それ自体を受け取るなら、どれほど大きな教養とどのような知恵を持っていようとも、私たちの許にいる獣たちに遥かにまさって、彼は、自分が神の許で口の利ない動物であると告白するでしょう。次のことは疑いないことでした:すなわち至福なモーセも(これを)見詰め、自分自身をそのような秩序によって神的な知恵に突き合わせたとき、神に向かって言っていました:「私は、あなたの許で荷驢馬になった[4]」と。ですからそのことに即して、預言者たちの中でも最も偉大なモーセは、目下の朗読の中で、神に向かって、自分は声が貧弱であり、舌は愚鈍である;そして雄弁でないと言っているのです。実際、すべての人間たちは、神的なみ言葉に比較して、寡黙であるばかりか、口の利けない動物たちであると考えられるべきです。



[1] Ex.4,10.

[2] Ac.7,22.

[3] Jn.1,1.

[4] Ps.72,22.

 

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