現存在Dasein

 

Da=「現に」・・・時間的な意味

  「そこに」・・・空間的な意味

そういう考えからハイデガーは、人間はDaという性格を持っていると言う。

というのは、人間が、ある一定の時間的空間的な意味での状況に置かれているからである。そこから離れた人間は現実には存在しない。

そういう意味で、ハイデガーは、人間というものは、Daを持つ存在だと言っている。つまり人間は、Dasein(現存在)なのだ。人間はDaseinとして時間的・空間的状況に置かれている。それ故、自分にとって本来的なあり方の投企は、周囲の状況によって制約されている。

自分の周囲の状況というものは、人間が自分で選んだものではない。否応なしでその中に投げ出されているのだ。それがDasein「現存在」というものである。人間の生き方には、大きな枠がはめ込まれているといえる。

実存分析は、我々人間というものは、どうなっているのかということをありのままに分析する。しかし気が付かないところを目の前に示されるから、我々はまごつく。

 

具体的な例で、以上のことを示そう。

      我々は、日本人である・・・空間的な意味。

     そして我々は、20世紀に生きている・・・時間的な意味。

 日本人であるということは、ハイデガーに言わせれば、自分の周囲にある回避不可能な状況である。我々は、日本人であるという状況に置かれることによって、我々は、たとえば言語上の制約を受ける。我々が外国語を習得することを努力目標にすることができるが、異常な努力が必要である。しかし我々が、この日本人という状況からは逃れられない。

20世紀にしてもまた、しかり。我々は、1990年代にみずから選んで生きようとしたのではない。気が付いてみれば、我々は、すでに1990年代に生きているのである。

以上の制約が、我々日本人を取り巻いている。

 

Daというのは、平たく言えば、時間空間的状況である。もうちょっと意味を広げれば、歴史的社会的状況である。しかしハイデガーは、もっと広い意味を考えている。つまり人間の被制約性一般(全体)を考えている。

では、人間の生き方の枠付けをするものは、他にどんなものがあるのだろうか。

u        才能がある・・・人間には、各人各様の才能がある。こういうものが、人間の生き方に大きな枠を与える。制限を与える。

u        性格がある・・・人間には、各人各様の性格がある。人に好かれるとか。好かれないとか。こういうものは、なかなか思い通りに変えることはできない。制約となっている。自分で選んだのではない。

u        人間には性がある・・・男性であるとか、女性であるとかは、自分で決めることができない。こういうものは、自分ではどうすることもできない。

 

これらのものがハイデガーの言うDaの中に入ってくるのである。したがって我々が生きているということさえ、すでに一つの根源的なDaの被制約性ではないか――とはいえ、ハイデガーはここまで言っていないが・・・。

たとえば、

     人間に一番いいことは何か。それは生まれてこなかったことだ。二番目にいいことは何か。それは早くくたばることだ(古代ギリシャの厭世主義者)。

      芥川龍之介『河童』にある河童の出産の場面が描かれている。 「河童的存在を悪と見なす」。

 

こういうDaというものは、その中に置かれている人間にとっては、なぜこういうDaに置かれなければならないのかがわからない。これを、カミュの言葉を借用すればAbsurde「不条理・不合理」ということになる。

※Absude・・・理由がわからない、理屈がわからんということ。

何故だかわからないけれども、しかしともかくそうなってしまっているというのが、Daということに本質的に備わっている。そういうDaの中で自分のあり方は、運命的に制約されている。それをハイデガーは、Geworfenheit被投性と言った。

※Geworfen + heit(過去分詞+抽象名詞を表す接尾辞)・・・投げられているということ

つまり人間は、Daの中に投げ込まれて、どうにもならないということ。それをGeworfenheitと言う。

 

被投性は、必ず一定の気分・心境を伴って意識される。

※Stimung気分、Befindlichkeit 心境

 

この場合の気分は、色々なものでありうる。陽気だとか、不機嫌だとか、そういうもの。

我々は、実際、経験はしているが、普段、気が付いていない。そういうものが意識される。そのとき不愉快な気持ちになったり、あるいは逆にいい気分になったりするのである。たとえば、自分の気付かない欠点を指摘されたときには、ふくれるとかいったもの。

そういう意味で状況というものが、被投的であるのと同じく、気分というものを状況から生み出すのである。

このことは、つまり、状況が気分を伴って現れてくるということは、状況というものが、単に理論的考察として我々の前に現れてくるものではないということである。

 

自分自身のあり方、生き方、つまり投企の可能性というものは、単なる理論的考察の対象とはならない[1]。何らかの気分が必ず伴ってくる。

人間にとって最も本質的な気分がある。それは

Angst 不安

Unheimlichkeit不気味

である。

 

ところで人間が、Daという規定を持った存在であるということは、別な言い方をすれば、人間が世界内存在であるということを意味する。

Das In-der-welt-sein

ハイデガーによれば、世界内存在というのは、現存在の必然的なあり方である。



[1]理論的考察に感情は入らない!

 

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