世界内存在Das In-der-welt-sein

人間がDaseinであるということは、被投性であるが、それは同時に、世界内存在である。

世界Welt

世界地図に描かれた全世界などの世界ではない。我々が実際経験している世界。私がかかわりあっているものの全体である。それは、我々が直接間接にかかわっている人間や事物の全体をさす。

Weltが、被投されているDaとしての状況と同じことになる。人間はこういうWeltに置かれていて、その中で接するいろいろなもの、つまり存在者と関わり合って生きている。

 ☆現存在は、Das in der Welt Seinとしてしかあり得ない。要するに次のような考え方はできない:

まずDaseinは世界抜きのものとしてあり得る。つまり仮に世界というものを外と考えて、Daseinとは、先ずはじめは外との関わりなしに自分の内側にとどまっていることができると考えると、そういうDaseinは、内から外へ出てゆき、気の向くままに世界内存在というあり方をするが、秋が来ると自分の内側に戻ってくる。そういう風にDaseinを考えてもらっては困る。Daseinは、世界内存在としてしかあり得ない。

 

我々は、自分のまわりのものとの関わり合って生きていかなければ、人間は存在し得ない。つまり人間は存在者としか一緒に生きられない。だから人間は、世界内存在でしかあり得ない。

これは、デカルト以来の近代哲学における人間の捉え方の重大な批判の意味を込含んでいる。そこで近代哲学における人間の捉え方を、簡単に述べておこう。

 近代哲学における人間の捉え方:

人間とは、すなわち認識主観[1]である。

あるいは、

人間とは、意識の主観である。

 

ところで人間の心の能力は、知情意という三つに分けることができる(三分法)

      知性の働き・・・能力

      感情の働き・・・能力

      意志の働き・・・能力

身のまわりのものを外側から観察することが認識であり、これが知性の働きである。こいつは嫌な野郎だとかする反応は、感情の働きである。知性の働きが働いている場合は、自分の感情の働きを抑えている。つまりありのままに捉えようとする、これが認識である。しかし人間は、感情を持たないと冷たい存在になってしまう。したがって知性に感情が伴い、さらに意志が伴う。

あいつは(知性)いい奴だ。感じがよい(感情)。よし付き合ってやろう(意志)。

近代哲学がこういう風に、人間=認識主観と捉えると、人間の知性の働き・認識の働きだけを重視して、後は切り捨ててしまう。つまり近代哲学は、人間の一面的な面しか捉えていなかった。主知主義的把握(知性だけを重んじる)に終わってしまった。

人間を意識するものと考えると、他のものはどうなるのか。私に則して言えば、認識主観は、私一人のものである。他の人は、認識主観ではない。他の人々は、当然、客観ということになる。

こうなると、世界は、認識主観(意識の主観)と認識の客観(意識されるもの)の二つに大きく分けられてしまう。主観と客観に分かれる。しかし主観は自分ひとりだけである。他のものはみな客観となる。

したがって他のものは、意識・主観によって認識され、知られることによって、初めて存在することができるものとなる。しかしこの場合、一つの条件が入る。それは「主観にとって」ということである。

客観は、認識されることによって始めて、主観にとって存在することができる。

例) 一人の教師が、あるクラスに特定の人がいることを意識しなければ、その特定の人は教師の主観にとっては存在しない−−しかし客観的事実としては、存在する−−繰り返し言うが、この特定の人は、教師の主観にとって存在しないのである。

近代哲学は、どれも厳密な意味での観念論[2]であるとは言えないが、人間は認識するもにすぎないと割り切ってしまって、存在するものを「認識するもの」と「認識されるもの」に割り切ってしまう。つまり存在するものは、主観にとって存在するものに限られてしまうのである。

※しかし存在するものは、事実として、主観を離れて存在しうる!

 

こういった近代の人間の捉え方は、主観主義といわれる。つまり主観というものだけを一方的に重く見る。そして客観が存在するかどうかは、すべて主観に関わっているのである。こういう考え方をはっきりさせたのが:

Descartes 1596~1650

デカルトは、偉大な人物であっただけに、彼の思想的なひずみは、ずーと後まで尾をひいてしまった。

「われ思惟す、ゆえにわれあり」

cogito ergo sum

※「思惟す」:考える、意識する

我々は、目覚めている限り、我々の意識の中に色々なものが表れてくる。いろいろな意識が時々刻々表れてくる。これがpenserに含まれている。そして私が意識することは確実である。疑う余地はない。意識がある以上、意識するものがなければならない。働きがある以上、働くものが必要である。

したがってcogito ergo sum は、最も確実で疑う余地がない。これはユークリッド幾何学の公理のようなものである。デカルトはあらゆる学問で、最も基礎になるものは哲学でなければならないと考えた。だから哲学に、最も基礎になるものがなければならない。そして彼は見つけた。それはCogito ergo sumである。

デカルトによれば、思惟する主観、認識主観としての一人ひとりの人間の存在が絶対確実なものなのだ。その上で絶対確実な私が明晰判明に認識したものも[3]、やっはり認識主観の存在の確かさと同程度に存在するのである。つまりデカルトは、客観存在の確実性を、主観の中から引っ張り出してきた。  

そうしたものに対するハイデガーの批判が、人間は das In der Welt seinとして現れてくるのである。

はじめは世界抜きで自分だけであり得る。先ず最初に主観があるのだ。そういう考え方が前提にあれば、デカルト流の考え方が出てくる。しかしハイデガーによれば、そう考えてはならない。これは、主観主義に対する決定的な非難の意味を持っていた。

Daseinが他のものと関わる関わり方は、主客の関係[4]とは違う。

では、本当の関わり方は、

der besorgende Umgang「配慮的交渉」

Besorge配慮・気遣い

であるという。配慮という仕方で、我々は他の事物と関わりあうのである。

ハイデガーは、我々が、日常の生活の中で、実際にやっていることを表明しているに過ぎない。たとえば我々は、家の中の家具が常にきれいに整っているように、いつでも使えるように配慮する・気を使う。家族の健康に配慮する。人間関係について気を使う。そんな結びつきが、人間と事物との係わり合いなのである。

つまりder besorgende UmgangDaseinとしてのdas In der Welt seinにおける人間と事物との本来的な関わり方なのである。主客のかかわりもあるが、それは例外的なものである。スムーズな状況にあるときは、der besorgende Umgangが行われている。

我々が配慮という形で事物に関わっているときには、その事物はZeug「道具」として人間存在(Dasein)の中に現れてくる。

Ding「物」:

外側から単に観察するという態度で、すなわち、自分の実生活にかかわりのないようなものを単に冷ややかな態度で観察する場合に観察されるもの。すなわち客観というものは、Dingとして現れてくるのである。

 Zeug「道具」:

実生活の上で、気を配っているようなものはZeugという性格をもって現れてくる。

つまり我々の態度によって、事物はDingZeugとの2つに分けられて意識されるのである。では、それならば、ここでハイデガーがZeugと言っているものは、どういう性格を持つのであろうか。

それはUm-Zu(〜するために)という性格を持つ。つまりZeugは、何らかの意味で、「〜するために」ある。

自然も、観察者にとっては、 Um-Zuという性格を持つ。つまりZeugになる。

 ハンマーとはどういうものであろうか。よいものであろうかということは、ただ外側から見てもわからない。それを実際に手にとって使ってみることによって、初めて物を打つためのものであること、使いやすいものであること、つまりよいものであることがわかる。このとき初めてハンマーは、DingからZeugに変わったのである。したがって事物と人間との関係は、理論的な関係とはまったく違う。実生活においては、我々は事物に対して理論的な考察・認識・判断はしない。我々が実生活ですることは、このハンマーの動きは手ごろだ、重すぎるという言い方をする。あくまでもZeugとしてしか事物を見ない。しかしZeugとしてしか見ないで、理論的な考察・判断はしないのかといえばそうではない。道具がなんかの拍子でうまく機能しなくなったときに、その原因を調べるために理論的判断が生まれる。しかしこれは例外的、ごく稀なものなのである。

 

道具というあり方をしているものは、互いに関連し合っている。たとえばハンマーの例でいえば、ハンマーというZeugは、釘を打つためのものである。そして釘の方は、釘の方でZeugである。また釘は、板→板→壁→家というようにZeugが関連する。そういう関連で「道具全体性」というものを道具は形成している。つまり道具というものは、互いに関連して、一つの全体を形成しているのである。一つひとつのZeugは、道具全体の中に一定の位置を持つことによって始めて有用なものとなる。Zeugとしての用を持つことになる。つまりハンマーは、釘も何もなかったとしたら役に立たない。

Zeugというものは、Um-Zuという性質・目的を持っており、まとまって一つの全体を構成している。では、道具全体はどういう性質、Um-Zuを持つのか。それはもはや道具ではないところの世界内存在としての人間のためのものとなる。ZeugをしてZeugたらしめているのは、Dingに対して配慮的交渉に携わるdas In der Welt seinとしての人間なのである。

 

ハイデガーがなぜ、Zeugということを手がかりにして実存分析を行ったのか、その真意を確かめてみよう。

彼の実存分析は、人間をdas In der Welt seinと規定したときと同じ意図をもってなされた。そこには、近代の主観主義の立場から見た人間と事物との関係に対する批判の意味が込められている。我々は、主観主義という立場にたって人間と事物とを見る場合は、認識主観、認識客観とに分けて見ている。

ハイデガーによれば、人間と事物との関わり方、das In der Welt seinとしての関わり方は、特殊な関わり方である。Der besorgende Umgangの対象は、Um-Zuという性格を持っている。Daseinとしての人間は、同時にdas In der Welt seinとしての人間である。そしてder besorgende Umgangを述べるために、Zeugについての話をしたのである。

人間はDaseinとして、自分が選んだのではない一定の状況の中に置かれている。そしてそれを離れてはあり得ない。その中での投企というものは、自由なものではあり得ない。つまり人間は、自分のあるべき姿、本来的実存の可能性を選ばなければならないわけだけれども、これは制約されている。だから選ぶ可能性は、あてがわれた可能性なのである。つまり選択肢が限られている。別な言い方をすれば、人間は、Daseinとして、一定の可能性の中に落ち込んでしまっている。ハイデガーはそれを、被投的投企(geworfene Entwurf)と言う。人間の投企というのは、始から限られた選択肢の中に被投されているのである。

 

ここでハイデガーの思想と違ったことを述べる。脇道へそれる。この被投的投企という背景には、何があるのか。実存分析は、人間のあり方の分析に過ぎないと私は言ってきた。しかし人間のあり方には、色々な面がある。この色々な面の一つが、人間のDaseinなのだとハイデガーは言っている。それならば何で彼は、人間の持っている色々な側面の中から、一つの側面だけを引っ張り出してきたのか。

    哲学は、抽象的議論が理論的にわかっても、哲学を理解したことにはならない。具体的な問題、具体的なイメージに置き換えなければならない。表面に出ないような思想家の感受性、気持ちが抽象的な議論を動かしている。その思想家の感受性とは何か。気持ちは何かをつかまなければならない。

何故ハイデガーは、人間には色々な面があるのに被投性だとか、被投的投企だとかを取り上げるのだろうか。

人間は、一定の状況の中に被投され、運命的に規定されていることは、人間存在の全き偶然性、不合理そのものである。人間というものは、まったく偶然のもの、無意味なものである。

前にも言った言い方で言えば、つまりCamusの言い方で言えば、人間存在はabsurdeということになる。

一般に実存主義者という人たちは、人間存在の偶然性に対して特に鋭い感受性を持っている。これは、感覚の問題である。逆にこういうものに対して、感受性を持たない人には、実存哲学はわからない。

人間は、どこからきたのか。何のためにここに来たのか。これから先、どこへ行くのか、自分にはわからない。しかしそういうことがわからないのに、ともかく現にここにあるという事実、そういうものに実存主義者は言い知れぬ不気味さを感じている。

ハイデガーを動かしていたものは、人間存在に関する全き偶然性に対する並々ならぬ感受性であるに違いない。

キルケゴールもまたしかり。『反覆』

人間が本を出版する場合には、一定の読者を想定している。この本に対しては、彼はただひとりの人間に読ませるために出版した。彼の婚約者に対して書いた。彼は自分から婚約を破棄した。彼は何故そういうことをしなければならなかったのかという真意を彼女に理解させるために出版したのである。彼の父親との神をめぐる運命的な事件が一つの契機であったらしい。

彼がこの本で言う:

「私は、誰なのか。どうして私はここに来たのか。なぜ私は、忠告を受けなかったのか。指図をするものはどこにいるのか。私は彼にひとこと言ってやりたいものだ」

※ この言葉には、明らかに人間存在についての偶然性という事実に対する嘆きが聞き取れる。

これと同じことが、パスカルの『パンセ』の中で言われている。

「私の生涯の短い期間が、その前と後ろの永遠の中に没し、私の満たしている小さな空間の無限の広さの中に投げ出されていることを考えるとき、私は自分がかのところになくて、このところにあるのかを見て恐れ驚く。なぜならかのところになくて、このところにあり、このかのときになくて、いまあるということの理由は、いまないからである。誰が私をここに置いたのか。誰の命令と指図によって、この場所とこの時が私にあてがわれたのであろうか」(パンセ25)

   無限への恐怖・・・私の身の回りには、無限の空間が広がっていて、この無限の空間の中に私はぽつりと置かれている。私の身の回りには、無限に続く時間がある。私はその中にぽつんと置かれている。そういうことを考えると言い知れる恐怖感に襲われる。これは、人間存在の偶然性と非常に似ている。

ところで、P.Valéryがパスカルの無限への恐怖を指差して、手の内が見えているというひどい悪口を言っている。ポール・ヴァレリという人は、無限への恐怖に対する感受性を持たなかったということは明白である。ところで手の内が見えているということは、どういうことであるかというと:

人間は無限の中に置かれているけれども、人間は神によって支えられている。人間には意味がある。人間は、永遠に神と共にあると信じることができれば、無限への恐怖などは、問題ではないとパスカルは言っているのである。事実パスカル、こんなことを言っている。「無限の宇宙は、失われた神を啓示する」と。

明らかに無限への恐怖は、神によって逃れられる。それだからヴァレリは、手の内が見えていると言ったのである。素朴な読者を神へ引っ張り込むためのトリックに過ぎないのだ――ヴァレリというのは、そこの浅い思想家であると思う。

パスカルが、何故、無限への恐怖と偶然性のことを言っているのかというと、彼は、人間存在に関する並々ならぬ感受性を持っていたからである。ハイデガーは、パスカルやキルケゴールに対して並々ならぬ親しみを感じていた。

これと同じことをカントも言っている。カントが珍しく文学的なことを言っている個所があり、その言葉は彼の墓にも刻まれている。

Der besternte Himmel über mich und das moralische Gezetz in mir.

「星の輝く大空はわが上に、道徳法則はわが内に」『実践理性批判』(第二批判)

・・・星の輝く大空をひとりで振り仰いでいると、宇宙というものは広大無辺である。これに比べて自分という人間というものは、いかに卑しくはかないものであるかを思い知らされる。しかし振り返って考えてみると、人間というものの中に、道徳法則があるのを考える時、人間存在の偉大さを感じざるを得ない。

カントは、おそらく無限への恐怖と人間存在の偶然性に対する感受性を持っていたに違いない。しかしそれでも彼は、無限への恐怖と人間存在の全き偶然性からの解放の可能性を抱いていた。人間は、一人ひとり、道徳法則を持っている。しかも人間は、道徳的でありうるということは、人間に意味を与えるものなのである。

宇宙と比べるとはかない人間も、道徳というものによって意味を持つのである。それゆえカントは、人間存在の偶然性から救い出されることができた。

これはパスカルについても言える。

「人間は、葦のように弱い。しかし人間は考える葦である」。

人間ははかなく弱いものである。しかし人間は、考える力を持った、意識する力を持った存在である。自然に比べて人間が弱いことを人間は意識している。そういう意識の力を持っているからこそ、意識する力を持たない自然より偉大なのであると、パスカルは信じることができた。

これはデカルト以来の主観主義と同じものである。その意味では、カントが人間は道徳的なものであるから、無限への恐怖から逃れることができたと言うのと同じである。

 

しかし我々現代人は、以上のように楽天的に人間というものを信じることができるだろうか。道徳的であるということが、人間にとって意味があるものであることを信じることができるのか。また人間は、自然に対する弱さを知ることで、人間は偉大なのだと、現代人は信じることができるのであろうか。しかしもしそういうことを信じることができないのであれば、残るのは何か。

残るのはただ一つ:人間存在の全き偶然性・無意味さだけである。ハイデガーは、こういうことから被投性や被投的投企などの一面だけを取り上げたのである。

 

世界全体の中での人間存在の偶然性の体験は、実存哲学の根底にある一つの体験である。しかしこの体験がいつの時代にもあるというのではない。それは、近代特有のものである。  

《古代ギリシア的な、キリスト教的なものとの関連について》

古代ギリシア人の考え方:

彼らが考えた世界はコスモスというものである。日本語では宇宙と訳すが、彼らの真の考え方と関係ない。「一定の合理的な秩序を持った永遠なもの」と考えられていた。この永遠なものをキリスト教と比較すると、古代ギリシア人たちは、神による世界の創造を考えていないということがはっきりする。古代ギリシア人にとっては、世界は始からあったのである。それならば、神とコスモとの関係はどうなっているのか。キリスト教では、コスモスを造った神は、コスモスの外にいなければならない。その中にいることはない。ところが古代ギリシアでは、神はコスモスの外にはいない。中にいるのである。

コスモスという言葉には、元来二つの意味があった。

1.        具体的な意味・・・飾り、装飾 → 美しいもの

2.        抽象的な意味・・・秩序

だからコスモスには、最初、「世界」という意味はなかった。古代ギリシア人は、秩序・調和・均衡を重視し、それをよいものと考えた。つまり「美」と「善」をイコールと見た。物の形にバランスがあって、秩序があれば、それは美しく善いことになる。

一方、人間の行動・性格、あるいは人間の心のあり方に秩序と均衡(中庸)とがあれば、それが人間の行動のよさ、心のあり方のよさなのである。そんなこんなで、「美」=「善」という考え方が生まれた。

そういうことからコスモスには、二つの意味があっても、古代ギリシア人にとっては、何でもなかったのである。当たり前のことであった。こういうコスモスに、世界とか宇宙とかいう意味が入ってきた。どうしてこういう意味が入ってきたのか。それは世界とか宇宙とかに、一定の秩序と合理性があったからである。

古代ギリシア人たちは、コスモスの中に一定の合理的な位置を占め、その中でやすらうものが人間であると考えた。こういうところでは、人間存在の全き偶然性への意識は出てくる余地がなかった。

キリスト教では、世界、宇宙というものは、神が創造したということになっている。神が世界を造るかどうかということは、神の意志にかかっていたと考えられている。それは、どういう意味なのか。

造るも造らないも、神の勝手である。神がたまたま造る気になったものだから、造ったのであって、必然的に造ったのではない。しかしそういう風に考えると、古代ギリシアのコスモスとの比較では、宇宙全体や世界全体の偶然性という考え方がキリスト教では入り込んでくる。しかしそういう偶然性というのは、宇宙全体の話で、人間にとってはだいぶ違ってくる。

キリスト教では、人間は、有限な宇宙の中心として、神によって造られたのであると考えられている。宇宙を天球という考え方から有限とした。つまり宇宙があるじが人間なのだ。しかしそれだけではない。人間は信仰によって、神と内的に結ばれ得るのであると考えられた。

こういう考え方があるところでは、人間存在の全き偶然性という意識は出てくる余地がなかった。しかしそういう考え方は、近代に入ると激変する。ルネサンスにおける無限宇宙論の出現が先ず挙げられる。そうすると、無限宇宙という考え方だけで、人間が宇宙の中心であるという考え方は、吹っ飛んでしまう。これは論理的必然である。広さが無限なのに、そんなところに中心などあり得るはずがない。無限空間における中心の措定は、まったくナンセンスである。無限に中心を設定すれば、中心はいたるところにあることになる。

そこへ天文学の発達が入り込んできた。地動説の出現である。これによって宇宙の中心としての人間の立場が、ますますぐらついてきた(動いてきた)。

こういう時代に生まれたパスカルは、だから言うのである:

「人間は、宇宙の中心ではなく、無限大と無限小との間のゼロ点である。時間的宇宙的に無限の長さで前後を囲まれて、どこからどこへ行くのかわからない」。

ニーチェはもっと強烈に言っている:

「人間は、コペルニクス以来、宇宙の中心からXへと下落した。一つの偶然となった」。

天文学の発達と神に対する信仰の衰えとから出てきた人間存在の偶然性の体験は、時代の進行と共に深められていった。何故か。近代の集団社会というものの中での社会的な孤独という感情が出てきていることが、その一つの要因であると思う。  

《近代社会における人間の社会的な孤独》

古代においては、人間は狭い一つの村落で生きてゆけた。しかし時代が進むと、他の村落との交渉が生活を楽にすることがわかってきた。だから孤独は感じなかった。

人間が自分の孤独さというものを感じる場合には、二つのタイプがある。

1.        文字通り自分が一人ぼっちでいる場合。

2.        現象的には皆と一緒に暮らしている。しかし心の中ではどうも上手くかみ合わない。

人間というものは、しょせん心の奥底では孤独なんだ。集団社会における人間の社会的な孤独感は、後者のタイプである。こういうことから人間存在の偶然性の体験は、いっそう深めれ、過酷なものになるのではなかろうか。古代ギリシア人が素朴に信じたコスモスという考え方のできない人、世界と人間とを創造した神を信じることができない現代人には、何ができるのか。残るのはただ一つ、人間存在の全き偶然性との直面でしかない。こういう偶然性の感情が実存哲学を根底において支えているのである。

この意味でカール・レービットという思想家は、現代人はみな、多かれ少なかれ実存主義者であると言っている。



[1]認識・・・我々は自分の身のまわりにある事物はどういうものであるかを考えたり判断したりすること。

[2]客観的観念論:イデアや宇宙的な精神を世界の根源とする形而上学説。

主観的観念論:物質的世界の客観的実在性を否定し、世界は個人の主観の観念に過ぎないとする立場。

[3]明晰:概念の内包が一つひとつはっきりしていなくとも、それの対象を他の対象から区別するだけの正確さを持つ概念についていう語。

[4]主客の関係は、外から観察されるものと、観察するものという関係。

 

次へ