B. 死への存在 Sein zum Tode

 死への先駆的決意(覚悟) Vorlaufende Entschlossenheit zum Tode

 負い目 Schuld

 

前に人間存在の偶然性に関する話に入る直前に、人間は限られた選択肢の中に投げ込まれている(被投的投企)ということを言った。こういうものしか人間には可能ではない。それは、人間存在というものが有限であることを示している。

被投的投企は、人間存在について二つのことを示すようになった。

1.        一つは、人間存在の全き偶然性。

2.        一つは、人間存在の有限性。

人間には限りがある。人間には選択肢が限られている。だから人間存在は、徹底的に有限である。これは極めて実存主義的な感じ方である。これは実存哲学をその根底において支えている更にもう一つのものなのである。

ところでハイデガーによると、人間の有限性という事実を最もはっきりと示しているのは、「死」という現象である。死とは終りである(神を脇に置いた上で)。人間とは、死という終りを持っている。人間は、死とかかわりを持たなければならない。そこでハイデガーは、「死」という現象を非常に重く見たのである。そのために彼は、Dasein, Das in der Welt Seinとしてきた人間を、Sein zum Todeというふうにも規定した。死は、人間の究極的可能性である。しかしそれと同時に、人間のすべての可能性は、死において切断されてしまう。ですから死というものは、人間の現実的投企(可能性)が有限であることを示している。こういうことからすると、Sein zum TodeDaseinとの根本的な意味には、違いはないことになる。ただSein zum Todeの方がより切実なもの、より切実な表現である。

ところで「死」という現象が、人間存在について示していることはもう一つある。

1.        人間存在は、有限である(寿命でも可能性でも)

2.        人間は、孤独である。

人間存在の孤独に関連して、ハイデガーは次のように言っている。

「各自の存在は、各自のものである」。

これは、結局、自分というものは、自分がどんなに気に食わなくても、墓場までそいつを背負ってゆかねばならないということである。こういうものは、他人に代わってもらえない。たとえば、頭脳や容姿の醜さなど。こんなものは、自分ひとりで死ぬまで付き合っていかなければならない。こういう意味で、こういうことの行き着く先は、人間存在の孤独さなのである。

「死」というものが、人間存在の孤独さを明確にする。「死」というものは、各自のものである。誰かに代わってもらうことはできない。自分で自分の「死」というものを引き受けなければならない。それが、人間存在の孤独さを明確にするのである。人間にその孤独を思い知らせるのである。これが孤独さを人間に知らしめるものの理由の一つである。

もう一つ:

人間は死んでゆくときに、一人きりである。そういう意味で「死」は、人間の孤独さを突きつけてくる。別離の悲しみがあったとしても、死んでいくのは、たった一人なのである。

第三の理由:

自分の死に直面したときには、das in der Welt seinとしての人間が、それまで様々に関わってきたすべてのもの、他の人々や色々な道具(Zeug)というものが、すべて、私に対してものを言わなくなる。これは、私にとって意味のないものとなる。私と関わりのないものと感じられるようになる、ということである。

こういうことにおいても「死」というものは、人間を孤独にする。「人間は、本来、孤独なものでしかないのだ」ということを、死というものは露呈する。

 

そして本来的な実存の可能性の投企が要請されている、とハイデガーは言う。

死という現象が示しているように、実存は有限で孤独なものである。そうすると、要請されている本来的な実存の投企は、きついものとなる。つまり実存には終りがあり、限りがある。本来的な実存の投企によって人間は、自分が本来、孤独なのだということを、シビアーに自覚せしめられる。

これは、人間が自分の現実の死に先立って予め自分の死を覚悟することであると言い換えても言い。これが上記の二つを自覚させるのである。こういうことをしなければならないのは、普段の我々が実存の有限性・全き孤独ということを忘れて生きているからである。あるいは、そういうものからわざと目をそらして生きているという事実があるから、わざわざ先駆的な死の覚悟をしなければならないのである。

我々が健康でいるときは、現実的な死というものは、他人のものである。我々は、こういう現実的な死に取り囲まれている。たとえば新聞記事を見よ。

しかし我々が出会う死というものは、他人のものであって、自分のものではない。それなら自分の死はどうなっているのだろうか。それは単に一つの可能性に過ぎない。そういう自分の死が現実的になるのは、いつのことかわからない。今のところ俺とは関係ないと、人間は健康である限り、思っているであろう。

「人は、いつかはきっと死ぬ。しかし当分は私の番ではない」

と、ハイデガーは言う。

 

ハイデガーの考えを際立たせるために、ニーチェの考えを示しておこう。

人間の死のヴィジョンについて、ニーチェの考え方とハイデガーの考え方は、180度違う。 ニーチェは言う:

「人間は、本当は、いつ、突然死に襲われるかわからない。ところが、それなのに、人は、普段は、死は自分とは関係ないかのように振舞っているわけだけれども、こういうのん気さは、考えてみると不可解である。しかしもっとよく考えてみると、これでいいんだ。なぜだ。もし人間が、死というものが現実のものとなるかわからないが、いずれは必ず来るという事実を、もしはっきり自覚するということになれば、どうなってしまうのだ。人は、不安のあまり、何一つ手につかないような状態になるであろう。人が自分の仕事に精を出していられるのは、自分の死というものを忘れていられるからなのだ。自分の死を忘れることこそが、充実した生を送ることの手段なのだ」。

人間が死に対して優越できる唯一の方法は、自分の死というものを忘れることなのだと、ニーチェは考えている。つまりニーチェは、自分が自分の死に直面したときの弱さを知っていたということになる。

ニーチェによれば、死に対する理解を回避するのん気さこと、人間が生きていくための条件なのだ。

 

ハイデガーに言わせれば、ニーチェとは違って、死への先駆的な覚悟が、人間として生きてゆくための手段となる。自分の死を覚悟すると、自分の生涯というものが有限であることをはっきりと自覚すること、こういう自覚によって、その人の生涯は、初めて緊張状態に置かれることになる。その人は、限られた時間を、無駄に過ごすことはできないという生活を送るようになる。

どうしても為さねばならぬことと、時間潰しとをはっきり区別した上で、どうしてもやらなければならないことにだけ、限られた自分の時間を使うようになるのは、死への先駆的な覚悟をするときである。

大体つまらないことというのは、えてして大したことではない。自分にとっては、自分の生きがいになるのはこれなんだというものをやる、人が何を言おうとやるということ、これこそ人生を充実して生きることなのである。

もしも自分に与えられている時間が有限なものだと考えるとすれば、それは青年時代であろう。しかし、どうしてもやらなければならないことに、自分の人生を費やさなければならないという必死の決断は、死の自覚をしなければできない。

現実の死に先立って、自分の死を知る。

ハイデガーの方が、ニーチェよりも、人間に対して非常に厳しい態度を取っているということになる。思想としてみる限り、ハイデガーの方がまともだと思われる。  

ランツバーク『死への経験』紀伊国屋書店

ランツバークは、敬虔なカトリック信者。ユダヤ系の思想家。 1943年、フランスでゲシュタポに捕まる。194442日、収容所で死去。42歳。

この人の考え方を紹介しておこう。

人間が自分の死というものについて、普段、持っている感じ方は、「老いの最終的・自然的な死」である。

こうした死に方が、自分の死について持っているものである。しかし本当は、「死」というものと「老いのプロセス」というものとの間には、必ずしも必然的な関係はない。若死にする者が多いからである。つまり死というものは、間近にあるのだ。そうした死のやってくる時期というものは不確かだである。  

ハイデガーは、死というものには、確実性と不確実性とが備わっていると、指摘する。死の到来する時期に関しては、死はまったく不確かである。そこのところに、死というものが持っている不気味さがある。そして死が到来する時期が不確かであるとは、自分の運命にとって無知であるということである。人間の意識に死が不在なのは、この無知によるのである。死というものは、不在の裏に現前している。

子どもと未開人とは、特にこのことがはっきりしている。人間というものは、人間にとって内面的な必然性というものを意識していない。これは自明である。子どもについてはすぐわかる。未開人のことについて言おう。

未開人は、死というものには、必ず外的な原因がると思っている。たとえば呪いなど。そういう原因に死が付随しているのである。死は、未開人にとって内面的な必然性を持っていない。人間は必ず死ぬものなのだと思われていない。しかもある人が死ぬと、別の人が死んだ人の地位や職分を引き継ぐ。それのもつ意味が文明人とは違うのである。つまり後継者は、死者の名前と魂をも引き継ぐのだと理解されている。

そうすると、死んだ人間は再生することになる。したがって集団全体にとっては、すべては、何事も起こらなかったかのように経過していく。

未開人や子どもは、死の内的な必然性というものを知らない。そうすると、人間が本当に個人となること、独自の人格になるということ、そのことと死の経験とは結びついていることがわかる。

「人間は独自の人格となればなるほど、可死的になる。自分の死を自覚するのだ」。

 

別な話になるが、ランツバークによると、人格というものは、精神的なものである。肉体的な意味での生命と区別されなければならない。前者の本質、人格の本質は、ハイデガーのようなSein zum Todeではない。Sein zum Todeになるのは、肉体的な意味での生命でしかない。

これは、ランツバークのカトリック的な考え方を示すものである。彼によれば、精神的な人格の本質は、自己実現と永遠とを目指すことである。こういう精神に対しては、肉体的な生命の死は、疎遠なものである。人間の人格は、元来、永遠なものであるからこそ、死の必然性というものを精神的に同化するが重大な問題になるとされる。これから先は、カトリック的な考え方になる。

 

ハイデガーに戻ると、死を自覚しながら生きることこそ、人間の本来的な生き方・あり方、人間の本来的な投企である。言い換えれば、死の必然性を自覚し、内面の孤独を自覚することこそ、人間の本来のあり方なのだということが、ハイデガーの思想の核心である。

しかしこういうことは、たいへん印象的である。したがって多くの批判を受けるのも当然であった。こういうことは、学問としての哲学が追求しなければならないような客観的な真理ではない。これは、ハイデガーの個人的な考えでしかないという批判がある。  

しかし人間というものを考えるとき、そのあり方を分析する場合(実存分析)、人間を超えるものを引き合いに出して、神との関係において人間を見るということを、ハイデガーは拒否した。

キリスト教には、人間は、神を信ずる限り、神と内面的に結びつき、肉体は有限だが精神・魂は永遠であるというような考え方がある。

しかしハイデガーは、人間に則して考えようとした。こういうことをする限り、人間というものは、あくまでも有限なものであり、人間は、心の深い層においては、孤独なものであるとしか考えられなかった。キリスト教においては、そういうことはない。だからキリスト教には、人間に孤独さはないということになる。

こういう意味で、ハイデガーは、「神なき時代の思想家」であった。人間を考える場合、神を引き合いに出さないと言うハイデガーは、「とぼしき時代の思想家」ということになる。カール・レービットも言うし、ハイデガー自身もそう言っている。

そういうハイデガーにとっては、人間は有限で孤独である。そういう存在であるとしか考えられなかった。これがハイデガーの主題であり、結論であった。また彼の核心であった。そしてこういう人間存在のあり方をはっきりと示しているものは、死への先駆的な覚悟である。そしてその自覚の下に生きることなのである。

 

ここで同じことを角度を変えて見てみよう。

「無」「なさ」=Nichte

西田哲学によれば、無という言葉の前に、絶対無ということがある。これが西田哲学の中心・核心である。彼の哲学は、理屈ではわからない。座禅でもしなければわからないものであるらしい。西田哲学の本質は宗教である。

しかしヨーロッパ人が使う「無」は、いたって簡単で、「〜ではない」ということである。

     人間は、Daの中に投げ込まれていて、その特定の被投性無視することはできない。

     人間は、生きている限り、自分の生き方の根拠であるはずなのに、その根拠を自分で置いたのではない。

     人間は投企によってある生き方を選べば、それ以外の生き方はできない。

     自由とは、何か一つを選ぶことだが、一つを選べば、他のものは選べない。

このことが人間が無の中に引き込まれいることなのである。

 

    人間は、無限には生きられない。

      人間は、自由にどんな生き方をできるわけではない。

こういう無が、人間にいつもくっついて回っている。ハイデガーは、無を語る場合、Nichtenという動詞を使うこともある。「Nichten無化」、否定する働き、打ち消す働きというものが人間の生き方にくっついて回っている。これが、人間というものは「無」の中に引き込まれているという意味である。

こういうふうに、人間の投企についても被投性についても、無がくっついて回っているということで、人間は、無の中に引き込まれているのであるが、ハイデガーは、このことを人間の負い目Schuldと言う。人間存在にはSchuldというものがある。つまりこの「負い目」は、人間が有限であることを示しているのである。Schuldと人間存在の有限性とは、本質的に同じことである。

人間存在にはSchuldがあるということは、道徳的な意味でも、法律的な意味でもない。それは、人間のあり方に関する規定である。責任を持たなければならないということではない。それは、自分の有限性を自覚せよと求めているだけである。Schuldを感ぜよと、死への先駆的な覚悟とは、本質的同じことである。有限性と無とは、切断することができない。このことを最もよく示すのが、「死」というものである。これですべてはおしまい、つまりすべては無に帰するというのが、「死」というものの無なのである。

こういうふうに、人間のありのままの姿、事実性というものが、本質的に無を含んでいるということを考えまして、こういうものから人間というものを捉えようとするハイデガーの態度というのは、神なき時代の人間の見方であると言える。さらに彼のこういう見方は、ヨーロッパの伝統的な人間観の見方への批判の意味も含んでいる。既にこのことは、これまでに二回ほど指摘した:

1.        Das in der Welt Seinを論じたとき。

2.        配慮的交渉を論じたとき。そこで、主観主義的な人間と物との関係に対する徹底的な批判をした

ハイデガーの考え方には、これで三度目であるが、ヨーロッパの伝統的な人間理解に対する批判が込められているのである。

プラトンを始とする古代ギリシア以来、人間を考える場合、人間を事実性[1]に即して考えるのではなく、事実性を離れた本質に則して考えるのが、ヨーロッパの伝統的な人間理解であった。

事実性と区別された本質は、理性であると考えられた。理性というものは、何かある恒久的で普遍的なものと考えられてきた。これが普通であった。そして理性は、本質から人間を捉えようとする。この古代ギリシア以来の人間の理性は、人間の事実性が本質ではなく、仮のものだと考えてきた。つまりそれは、有限で孤独な事実性を無視するような考え方をしてきたのである。

こういう傾向は、近代に入って、神に対する信仰が衰え、神の摂理に身を任せることができなくなり、理性への信頼が増すにつれて、ますますひどくなった。なぜひどくなったのか。パスカルの考える葦の話などに関わるのだが、近世の人は、理性の力、考える力、あるいは認識する力に、人間の意味というものを見出そうとしたのである。今までは、神に支えられていると思っていた。しかし神による人間の意味付けというものがなくなってきた。でも人間は、人生の意味がなければ生きてゆきない。だから人間は、理性を頼みにし、考える力を持った理性を盲目的に求めたのである。こういうことからパスカルの考える葦が出た。

こうしたことにハイデガーは、反旗を翻した。人間の事実性こそが、人間の本質なのだ。有限と孤独、すなわち無というものを含んだ事実性ことが人間の本質なのだ。

ハイデガーの考えは、プラトン以来の理論的な考え方に対する徹底的な批判の意味を持っていた。

 

ハイデガーの人間観が、神なき時代の人間観であると言った。ここでハイデガーの神についての考え方に触れておこう。しかしあまりはっきりしない。彼は、神に対する態度を最終的にはっきりさせないまま死んだのである。

ハイデガーは、詩人ヘルダーリンHerderlinにならって、現代を「世界の夜Weltnacht」と呼んでいる。現代は、夜なんだと言っている。これと同じことは、カミュも言っている。「今、ヨーロッパは夜である」。

なぜか。

ハイデガーの文章に曰く:

「世界の夜がその闇を広げる。我々の世界の年齢は、神が遠く離れ去っていることによって、神の欠如によって定められている」。

つまり、今は神様は欠けている。いないんだ、ということが、現代の世界なのだ。ハイデガーは、ニーチェのように「神は死んだ」などとか、「神はもともと存在しないのだ」とは言わない。神が欠如しているという。あるいは「神々が人間の面前から逃亡して既に久しい」とも言っている。あるいは「古い神々は既になく、新しい神はまだ現れていない」とも言う。

ハイデガーにとって「現代は、神の不在の時代である」 ⇒ 神は、いまはいないのだ。そして神の不在の時代というのは、乏しき時代die dürftige Zeitなのである。神がいないというのは、昼でなくて夜だ。それは、豊かでなくて乏しい。ハイデガーは、また別の論文で、「世界の夜の乏しき時代」という言い方もしている。

これらのことは、人間とその歴史全体を意味づけてくれる力が存在しないことを意味している。こういう考え方からすると、ハイデガーにとって、キリスト教の神が存在しないのは確実ではあるが、ハイデガーが明確な無神論の立場に立っているとはいえない。その辺のところは、新しい「神々はまだ現れていない」などの言葉から明らかに見て取れる。

どうもハイデガーは、キリスト教の神とは違ったまだ見ぬ新しい神を求めているように見える。しかしいずれにしても、ハイデガーにとって、神というのは、少なくとも現在のところにいないのは明らかである。それにまた、哲学者としては、人間の問題を考える場合に、神から解釈することはしない。たとえば1924年の『時間』に関する講演――時間は哲学上の難問。これを始めて扱ったのがアウグスティヌス――、この中でハイデガーは次のように言っている。

「哲学者というものは、神については関知しない。だから永遠ということについても関知しない」。

それはどういうことか。人間を考える場合に、神を引き合いに出して考えると、死の問題について言えば、肉体は有限だが、魂は永遠であるということになってしまう。時間ということも考えると、人間は、許された時間となると有限であるが、魂と時間は永遠になってしまう。『時と永遠』を参照せよ。

ともかく神を引き合いに出すと、永遠の話になってしまうのである。だから神について関知しないということは、永遠にも関知しないということなのである。

ハイデガーは、この講演で、「哲学者というものは、信仰者ではない」と明確に言い切っている。彼によれば、「時間は時間に則して理解されるべきなのである」。

こういう立場からの考え方を人間の問題に移してみれば−−人間存在の全き偶然性と関連していったことだが−−、人間というのは、どこから何のためにここへきて、これからどこへ行くのかわからない。偶然的で死すべき運命にある(mortal)ということになる。そういうわけでハイデガーの人間の見方は、「神なき時代の人間観」と言うことができる。

 

ここで書物の紹介をする。

大木英夫『終末論』紀伊国屋書店  

※ Eschatologyy  eschaton終り

終末論というものの説明:最後のことについての教え・理論。おしまいのことについての理論は色々あるが、中でも有名なのは、ユダヤ教、キリスト教に出てくる終末論である。

ユダヤ教やキリスト教によれば、

我々の世界には終りがある。終りのときにメシアすなわちキリストが再来し、神の国が実現する。そして最後の審判が行われる。この三つが、我々人間の歴史のおしまいに来るのである。これは、ちょっと乱暴な言い方だが、共産主義者が言っているように、共産主義社会の到来が、人間の終局であるというのと同じことであろう。

こうした考えが、ヨーロッパの思想に決定的な影響を与えた。特に歴史哲学。それは、ヘーゲルの歴史思想に強く出ている。マルクスの思想にも強く影響している。マルクスの思想に関しては、キリスト教的終末論の焼き直しであるという解釈が出ている。マルクスの思想は、キリスト教的終末論の世俗化だと解釈されている。宗教的色彩を取り去って、他のもので置き換えたものである。マルクスによれば、どんな国の歴史も、資本主義社会から共産主義社会に収斂し終局を迎える。

こういうキリスト教的終末論について書いた人:

カール・レービット『世界と世界史』岩波現代叢書

ところで大木英夫氏は、この書物の中でこんなことを言っている

「人間が自由であるという主張が、本当に根拠を持った主張であるためには、人間が自然的なもののすべてから、自由になれるのでなければならない」。人間はいろんな自然的なものを持っている。それは、たとえば諸種の欲望など。あるいは人間が生身の肉体を持っているということ。生身の肉体が死ぬということ。こうしたものから自由になれるのでなければ、人間は自由であるとはいえない。

大木英夫の考えは、ランツバーク『死の経験』に述べられた考え方と通じ合っている。

人間というものは、独自の人格となれば、なるほど可死的となる。とはいえキリスト教の立場では、人格は、肉体と区別されねばならず、しかもその人格の本質は精神である。

このことは結局、「人間は、死からも自由になれるのか」という問いを生じさせる。もしも死というものが、人間にとって究極的なものであるならば、人間は自然から自由でないということになる。人間は、自由ではないのだという結論になる。

ところでキリスト教では、「十字架にかけられたイエスが復活した」と説いている。こういうことは、非合理的な奇跡であるが、「非合理であるゆえに、我信ず」(テルトゥリアヌス)でなければ、宗教を信じることはできない。これは、宗教の真髄を言い当てた言葉。

ともかくイエスが復活したという信仰は、イエスがキリストに他ならなかったということを示している。もしも復活ということが事実なら、そしてそれを信ずることによって、死して無に帰すはずの人間が復活するのならどうなるか。死というものは、人間にとって究極的なものではないことになる。復活こそが究極的なものとなる。死というものが、究極以前のものになる。そうしますと、死の持つ意味が変わってくる。死というものは、人間が究極的なものに到達するための条件に過ぎなくなる。

「復活というものによって、人間は死というものから解放され、人間は自由になる」と、大木英夫は言っている。

これはキリスト教の立場を取るものにとっては、極めて当然である。これとハイデガーのSein und Zeitとを比較すると、ハイデガーは、「乏しき時代の思想家」であったことがはっきりしてくる。



[1]事実性:被投性、無、死すべきもの。

 

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