C. 日常的人間のあり方

・・・普通の人間のあり方。

「世間」das Manとそれへの「 頽落 ( たいらく ) 」(Verfallenheit)[1]

 

前に述べたように、人間というものは、死への先駆的な覚悟をもって生きなければならない。しかし実際、人間は、そんなことを本当はしていない。本当に自覚的に緊張した生活をしている人間は、まずいない。まれである。

では、普段の人間のあり方は、どういうものであろうか。普段の我々は、世間の中に埋もれている。そして本当の自分を忘れている。見失っている。

本当の自分とは、有限で、孤独で、Daの中に被投された偶然なものである。

それならば世間とは、一体なんであろうか。世間の性格として、ハイデガーは次の二つを取り上げている。

1.          平均性Durchschnittlichkeit

2.          免責Entlastun・・・責任免除、責任回避という二つの意味が入っている。

先ず平均性:

十九世紀以降は、平均化の時代なのだといったことと、平均性とは同じことになる。要するに、他人と違わないないようにいつも配慮しているという態度。(存在と時間』27節を見よ)

ハイデガーは、世間一般に通用しているものと自分が違わないように生きること、これをdas Manと言っている。

 

ここでハイデガーを少し離れる−−人間というものは、元来、平均的なものだといえるという話。

ハイデガーにとって、平均的な生き方は、困るんだけれども、人間は、本来、平均的なものだといえそうである。

人間というのは、必ず一定の文化の中に生まれてくる。そしてその文化の中で育まれ、それを見につけることによって人間になる。人間はそういうものだと思う。子供というものは、人間的な文化の中に生まれてきた。周囲の文化を吸収して、完全に平均的な生き方をする。無批判に受け入れる。そうして子どもは、初めて人間になる。

それを典型的に示す例:

インドの狼に育てられた二人の少女。行動様式はまったくの狼であった。遺伝的には完全な人間であったが、行動様式はまったく狼であった。姉の方は教育的効果がさっぱり上がらなかった。可塑性というものが非常に低くなっているからである。人間の可塑性は、小さいときの方が高いのである。狼文化という言葉を使うと、その少女は、狼文化に右ならいして、それを身につけていた。

こういう人間の成長過程を考えると、人間というのは、元来、平均的なものである。逆にいえば、人間が個性的に生きるということは、それほど難しいことなのである。

 

ボルノーBollnow『認識の哲学』

この本の中でボルノーはこんなことを言っている。

人間というものは、元来、ハイデガーの言う意味で平均的なものだ。人間というものは、身のまわりの環境と調和して生きるようにされている。ある考え方をもって生きる人間が、何故そういう考えを持っているのかと言われると、その人は答えに詰まる。なぜなら答えというのは、自分で作ったものではなく、周囲から受け取ってきたものである。周囲から意見を受け取ることを小さいときから自明のこととしてやってきている。それ故、意見を受け取ることの意味自体わからない。

こういう人間の普通のあり方・平均的なあり方に+α がある。

現代のような機械化・管理社会の時代によってさらに平均的な生き方というものがはなはだしくなってきている。したがって人間が個性的に生きることは難しくなっている。そして実存哲学者が人間の個性を掲げて警句を鳴らしのである。

こういう人間は、自分の判断に責任を負えないことになる。つまり免責になる。なぜなら自分の判断・考え方というものは、自分で考えたものではなく、周囲から受け取ったものだからである。

世間や他人が自分の保証人になり、世間や他人は、おおように保証人になる。引き受けて、個人の責任を「みんなやっているよ!」と言って、免責してくれる。

では、世間とは、一体誰のことなのか。これは誰でもないことになる。つまり、いわゆる世間というものは、保証人になるはずなのに、保証人としての責任を負うものは、誰もいないのである。責任は免除してくれるが責任は負わない。

こういう性格を持った世間の中に埋もれてある状態、そういう性格を持って生きている状態、そういう生き方が人間の日常的なあり方なのである。

こういうあり方をする人を世間的自己das Man-Selbstという。これは、本来的自己と区別される。自分の責任でみずから選び取った自分のあり方と区別される。ハイデガーは、こういう世間的な自己のあり方を「頽落」と言っている。

 頽落(Verfallenheit)の特性:

頽落:自分自身の本来的なあり方から世間的なあり方へと落ち込むこと)

-            世間話Gerede

-            好奇心Nengier

-            曖昧さZweideutigkeit  

  これは、『存在と時間』35節〜38節による。ここには、ハイデガーの現象学的分析の才能が遺憾なく発揮されている。

 

世間話Gerede

世間的なあり方(非本来的なあり方)に陥っている人間は、話題になっている事柄は、あまり注意を向けない。注意が向けられるのは、むしろ話されているその話だけである。

たとえば:A,B,CDについてあれこれと世間話をしていると仮定する。Dについての話が出ているが、話題になっている事柄はDそのものである。A,B,Cが注意を向けているのは、Dについての話。本当の問題は、Dその人でなければならない。しかし注意を向けているのは、Dについての話なのである。Dその人を正確に伝えているのかどうかを考えていない。話が面白ければそれでいいのである。それは、いい加減な話し方なのである。

したがって話題になっている事柄についての正しい突っ込んだ理解というものは、世間話では得られない。世間話の伝達は、正確な知識の伝達という形を取らない。受け売りの話である。ハイデガーは、「世間話には根がない」と言っている。根がなければ、話されている話は、話題になっている事柄の正しい突っ込んだ理解にまで至らない。

ところで、世間話に花を咲かせるためには、人は、好奇心に富んでいなければならない。話題に豊富であるためには、身のまわりのことに好奇心を絶えず働かせなければならない。好奇心は真理への情熱とは違う。好奇心は、新奇なものを追求するだけである。

だから好奇心というものは独特の慌しさunverweilenを持っている。こういう好奇心の目的は、真理ではなくて、単なる気晴らしに過ぎない。

こういうことから来る話は、何もかも、中途半端なものである。曖昧なままである。しかも曖昧なものに留まっているにもかかわらず、人はわかったような気になっている。こういう性格を持った世間的なあり方が持つ意味は、人間がみずからの被投的な状況・世界内存在という状況を直視しないということである。そしてそこから目をそらして、それを曖昧にしている。さらに根本的に言えば、死への存在としての人間の有限性というものを曖昧にしている。自分の本来の姿を明らかにしていない。生きていない。つまりこれが頽落ということである。

ところが人は、こうした頽落の中にあるとき、日常的なあり方にかえって安らぎを覚える。逆に、自分の本来の姿に直面すると、そのとき人は、言い知れる不安を覚える。それゆえ頽落を通して生きることは、魅惑的なことになる。

ところでDas Manというものは、世界内存在としての人間が、いろんな存在者との関わりばかりに気を取られて、肝心の自分自身のことを忘れている状態ということなのだけれども、さてこれはどうしてなのだろうか。どうして人間は、自分の本来のあり方を忘れて、身のまわりの関わりばかりに気を取られているのであろうか。それは人間が、本来、世界内存在というあり方を持っているからである。頽落という現象は、人間のあり方・人間の構造そのものに根を持ったものである。根深い現象である。

はじめのところで、実存哲学は、19世紀後半に準備されたもので、平均化・神の死の時代の思想である云々と言った。現代は、機械化の時代・組織化の時代である。平均化の時代・大衆の時代・無名性の時代である。

ハイデガーのDas Manに関する分析は、このような時代の傾向をはっきり見た上で行われた。ところで、こういう時代の傾向というのは、死の無名声・代理可能性なのだと言っている人を紹介してみよう。

ハイデガーは、死の無名声・代理可能性はないと言ったが、そうではないと言った人がいる。それは、エルンスト・ユンガー(E.Jünger 1895?作家)である。彼によれば:

現代の傾向は、死の無名声・代理可能性という形を取ることによって最も先鋭になる。

彼は、19歳のとき、義勇兵として第一次世界大戦に参加した。この年齢で戦争体験を持ったことは後の生き方に大きな影響を与えた。

      原体験Urerlebnis・・・人間のその後の生き方・思想に決定的な影響を与えた体験。

  たとえば、マルクスの原体験・・・1800年代の英国の無拘束な資本主義化の悲惨な労働者の状況。マルクスはこの資本主義の無拘束を法的に規制することは不可能であると断定した。しかしこの予言は外れた。『資本論』「労働日」(Arbeit Tag)という題のついた章を参照せよ。ヘーゲル顔負けの卒論(ウルトラ観念論)を書いたマルクスを社会主義へと導いたのは、このような原体験であった。マルクスの原体験は、道徳的な情熱、怒りに込められている。Cf.脇圭平『知識人と政治』岩波新書

さて、E.Jüngerの原体験は戦争体験である。極限状態に兵士は置かれる。そうすると人間の汚さが現れる。人間は、いかに醜くいやらしいものであることか。ヒューマニズムの教育が青年Jüngerの心の中で崩れていく。このJüngerが、「近代戦の戦場においては、死というものは顔がない」と言っている ⇒ これは、死の無名性・代理不可能性ということの比喩的表現である。

近代の軍隊というものは、兵隊というものを徹底的に画一化してしまう[2]。指揮官の命令に、全員が従う。兵隊というものは画一化されてしまうから、皆、同じであり、代理可能である。一人の兵隊は、他の兵隊に代わってもらうことができる。ということは、誰が死んでも補充する兵隊がいる限りは、一向に構わないことになる。少なくとも軍隊という組織の側から見る限りは、人にはまったく違いはない。死んでゆく一人ひとりの兵隊の側からみても、皆、画一化された意識を持っている上に、大量殺戮の兵器で同じように殺される。それやこれやで一人ひとりの死というものには、各人一人ひとりの特徴がなくなっている。つまり死には、名前がないのである。顔がないのである[3]。ここに平均性の時代の特徴が象徴的に現れている。

⇔ リルケの『マルテの手記』の始めのところに、一人の人物の特徴的な死に様を示している。彼は、各人特有の死というものを抱えていた。

 

最後にハイデガーの真理についての考え方。

実存分析という題で講義がなされているのであるが、実存分析に現れた真理について考え方は、どういうものであるか。ハイデガーによれば、人間存在の事実を隠さずにありのままに直視することによって、人間の真実の姿があらわになっていること、これが真理ということの意味である。

逆に非真理というものは、人間存在の事実から目がそれていて、事実があらわになっていないありさまということになる。

例:

死は確実であり、その到来の時期は不確実である。こういう人間存在の事実を率直に認める態度が真なる態度である。この真なる態度によって明らかになっている事実が真理なのである。したがって頽落という状況は、人間の確実な事実の隠蔽である。だからそれによって非真理が生じる。

こういう真理の考え方は、普通の真理の考え方とかなり違う。普通、真理というものは[4]、自分とは関係のない事物を外から観察して、その結果と事物とがあっていれば、真理であり、合っていなければ非真理である。

ハイデガーの考え方は、人間の置かれている事実に対する誠実さ・忠実さという意味に非常に近い。人間のありのままの姿を見据えることが真理であると考えている。



[1] das Man:「世人」と訳すこともある。Verfallenheit:自分の人間の本来的なあり方から世間的なあり方に落ち込むこと。

[2] イタリア・フランスの軍隊は一人ひとり個性が強いからいつも負ける。

[3]源平の合戦と対照的である。先陣。

[4]真理:実存的関係・事態を正しく言い表している判断内容のもつ客観的妥当性。

 

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