D. 良心Gewissen

前項のC(日常的人間のあり方)では、人間というものは、世間というものの中に頽落し、好奇心に駆られては、曖昧なことに我を忘れている。それは、

1.        人間の本来的なあり方である一定の状況への被投性からの逃避

2.        非投性というもののシンボルである死への存在から来る不安(Angst)や不気味(Unheimlichkeit)からの逃避

に動機づけられている。ハイデガーにとっては、死とは無である。したがって自分の死に直面した人間の在り方というものは、本質的に不安でなければならない。この不安という気分の中で、人間は無に臨む自己を思い出すのである。

コメント:

被投性のところで、被投性という在り方は、その時々の気分を伴って現れてくると、私は言った。僕がこの大学にいるということは、一定の気分を持っている。いやだ。早く出て行きたい。自分の置かれている状況を自覚するたびに、一定の気分を味わう。その気分の中で最も本質的な気分は、不安と不気味さである。なぜか?

被投性というものを象徴するのが死だからである。人間は死すべきもの(mortal)である。死というものは無である。本質的に人間は、この不安や不気味さの中かで自分を見なければならない。だから人間は、本来的の自分に目をそらして世間的な生き方へ頽落してゆくのである。

人間の中にこういう逃亡をやめるように働きかけるものがちゃんと存在している。それが良心である。したがってハイデガーのいう良心というのは、この言葉が普通に持っている道徳的な意味[1]は持っていない。実存哲学者の意味とでも言わなければならないようなものである。それは、負い目Schuldと同じように独特な意味合いを持っている。

 

人間が世間の中に頽落して、世間話に我を忘れている:

1.        人間の本来的な在り方・被投性からの逃避

2.        死への存在という在り方からくる不安・不気味さからの逃避

しかしこういう逃避をやめさせるもの、これが良心である。

ハイデガーの考えでは、良心というものの性格は、呼ぶことである。良心は、世間の中に埋もれてある状態から、本来的な在り方へ呼び戻すのである。良心というものは、騒々しい世間話から人間を呼び戻すのだ。それは粛然たる静けさの中へと呼び戻す。呼び戻された人間は、沈黙の内に(騒々しい世間話との対比)自分の死を投企(死への先駆的な覚悟)する。

「遠いところから遠いところへと呼ぶ声がする」Gerufen wird aus der Ferne in die Ferne

連れ戻される用意のできた者は、その呼び声に打たれる。自分の死というものへ呼び戻される。その人は、自分の有限性をはっきり自覚する(先駆的覚悟)。死とは、無に過ぎない。しかも人間は孤独になる。死に直面する自己は、次のように表現される:

不気味さの中でわが身に孤立化されて、無の中に投げられている自己。

騒々しさの中に安らぎを覚えている人間にとっては、不気味さの中に、あるいは無の中に投げられている姿は、ひどくよそよそしくて縁遠いものである。こうしたとき、良心が、日常的な自己を目覚めさせるのである。こうした良心の声は、遠いところから遠いところへと呼ぶ声に聞こえるのである。

しかしこういう良心に打たれて、本当の自己に目覚めた人間があるとすれば、その人にとってその呼びかけは、決して遠いものではない。遠くてしかし最も近いものである。最も切実なものである。



[1]良心・・・道徳的な意味:何が自分にとって善であり悪であるかを知らせ、善を命じて悪を斥ける個人の道徳的意識。

 

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