状況への決意

ハイデガーへの批判

※相手を批判するには、先ず相手の立場に立って考えねばならない。

 

既に述べたように実存哲学は、主観性や内面性にとどまるものではない。かえって外の状況へと出て行くように人を促す。本来的なあり方を生きようと決断する者は、自分の置かれている歴史的社会的な現実を覚悟して引き受ける。しかしこの現実というものが不可避的にどうしようもなく人間を規定している。このようなハイデガーの現実理解には、人間の現実に対する能動性とか創造性とかがまるで見られない。わずかに状況を覚悟して引き受けるところに、人間の能動性とか自由とかが姿を現わしているだけであって、現実を造り出そうという考えは見当たらない。

 

A ハイデガーによれば、「人間は歴史によって造られる」、「現在は過去によって造られる」:

人間が人間として生まれ、人間たらしめるものは、歴史(文化)である。そしてその中に我々は、生まれてきて、人間になってきた。

しかし現在の人間は、過去の歴史によって造られながら、それでも(未来の)歴史を造るのである。したがってハイデガーが歴史を造るという点を無視したとすれば、自然natureと歴史historyとは区別がつかなくなってしまう。

B ハイデガーによれば、「将来は、現在によって規定される」:

将来に向けての人間の投企は、現在の状況によって規定されている。人間は現在の状況の許す生き方でしか生きられない。

C あるいはハイデガーによれば、「現在は過去によって規定される」:

現在の状況は被投性(過去の状況)によって造られる。

しかしながら逆に、「将来が現在を規定し、現在が過去を規定する」ことだってある。こういった真理もあるのではないか。

現在が過去を規定するというのは、次のようなことをさす:

・      過去から新たな教訓や意味を見つけ出す。

・      過去に対する考え方を変える。

・      過去をどう評価するか。

こういったことが将来に対するヴィジョンによって規定される。

以上のような人間の創造性が、ハイデガーにおいてはまったく考えられていない。

 

歴史に関して言えば、過去の歴史が人間を造るということがハイデガーにおいては強調されている。

「我々は過去の伝統を離れてはありえない」のは真である。しかし伝統には色々なものがある。我々はある伝統に従う場合もあれば、そうでない場合もある。我々が能動的に選択することができるのである。これは将来に向けての我々の姿勢から取捨選択するのである。

歴史の認識についても同じことが言える。過去をどういうふうに見るか。歴史年表的な事実だけが歴史認識の対象ではない。歴史認識の対象には、その事実の原因と結果、こうした全体の意義の評価などが入っている。

歴史認識は、考える一人ひとりの歴史家によって、時代風潮によって、変わってくる。しかし歴史的事実は変わらない。「名前を伏せて、誰のどういう歴史家の判断か?」というテストを自分に課した歴史家がいる。

ある人曰く:

「過去の歴史的事実というものは、現在の我々が将来に対して持つヴィジョンの関数なんだ」

イタリアのクローチェ(Croce)曰く:

「すべての歴史は、現代史である」。

歴史というものは、時代とともに書き換えられるのである。

それならば、歴史認識の客観性はどこにあるのか。歴史は学問なのである。しかし、そもそも歴史科学というものは、客観的な学問として成立するのかという問題が残る。

この問題についての検討は諸君しょれぞれに任せるとして、ともあれ、ハイデガーの言うような過去の事実によって我々が規定されるという事態は成立しない。現在が逆に過去を規定するのである。

要するにハイデガーには、人間は歴史を作るのだという配慮が欠けている。何故なのか。それは、ハイデガーが人間を有限なものと見たからである。ハイデガーは人間の死というものを重視した。こうした見方をする限り、人間にできることは限りがある。人間にできることは状況によって決まってくる。したがってハイデガーにとっては、状況への決意というのは、極めて自然なことであった。

しかし彼の思想の欠点は、まだある。状況への決意についてハイデガーは語るが、それでは人間は、具体的にどう決意すべきなのか、その判断の基準が何も示されていない。

)    現在の状況を受け入れて、その状況の中に積極的に入り込む――決意。

二)    現在の状況を受け入れて、その状況を積極的に拒否する――決意。

この二者のどちらを選択するのかという規準が、ハイデガーには示されていない。そしてハイデガーにおいては、状況への決意は、前者の決意でしかありえないのである。

ハイデガーによれば、ここで大切なのは、何を決意するかということよりも、決断の仕方の方である。決断して積極的に意識的に現実に従うことが大切なのである。

ところが過去の歴史を紐解いてみると、つまらぬ誤った大義名分のために多くの犠牲が払われたという事実がたくさんある。我々にとって何かに自分を捧げることは、重大なことである。しかしながら決断の「真剣さ」というものは、その内容の「正しさ」とは結びつかない。決断が何らかの意味で崇高なものとなるためには、その内容が正当なものでなければならない。ハイデガーの思想には、この決断の内容の倫理的価値を評価する基準が欠けているのである。

カール・レービット曰く:

ハイデガーがナチスを支持したのは、ハイデガーの学説からの当然の帰結であった。これはハイデガーの状況への決意の結果である。決意の内容を倫理的に評価する規準を、ハイデガーは、何も持っていなかった。

ところが戦後、ハイデガーはナチスを支持したことをまったく反省しなかった。「それは取るに足りないことである」――自分が評価されるのは、哲学的な業績からであって、それ以外のものからではないという自負心を、ハイデガーは持っていた。

決意の内容の成否を決定するには、少なくとも社会科学的な理論の裏づけがなければならない。この社会科学理論の欠如が、実存哲学全体に共通しているのである。

 

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