補遺

  

実存という概念の付け足し。

実存Existenz = 現実的存在

中世哲学では、existentiaessentia    とが対立されて考えられてきた:

existentia 実存 「・・・がある」

essenti 本質  「・・・である」

ところで、essentiaとは、「あるものが何であるのか」ということを示す規定。

Existentiaとは、「あるものが在る」ということを意味する。

  例) 

机がある」――これが、この机のexistentiaということになる。  

「机がここに現に存在している」――机の実存。

「ここにある机は、これこれしかじかのものである」――これがこの机のessentiaということになる。

中世哲学ではexistentiaというものは、特に人間についてだけ言われるものではなかった。ところが実存哲学においては、existentiaを個々の人間についてだけ使うようになった。個々の人間にだけ限定してしまった。

『われ、いま、ここに在り』。

実存哲学は、一人ひとりの人間にとってもっとも重要な、自分独自の生の現実というものにexistentiaの持つ意味を限定した。これはKierkegaardから始まった。

キルケゴール曰く:

『実存という言葉の中心をなす意味は、Interesseである』

 ※ Interesse

一)興味、関心。

二)inter-esse ⇒ 中間にある。

実存つまり人間存在というのは、第一に関心を持つ存在である。第二に中間にある存在である。

ところで中間にあるということは、性質の違う二つのものの間にあるということである。たとえば、有限性と無限性の間。自由と必然の間。

人間はこういう二つの異質のものの間にあって、この二つのものから引っ張られている。人間というのは、矛盾した存在である。したがって自分の在り方というものにどうしても深い関心を持たなければならない。

そして一方になりきっている者は、自分の存在について特に関心を持つことはない。しかし二つのものの中間にあって、これら二つのものに引っ張られている人間は、一体どっちらの方へ身を委ねたらいいのであろうか。

「自分の真の在るべき姿に関心を持って、それへなろうとする」

(Kierkegaardの実存の定義)

こうした人間は、課題を持った存在ということになる。

こうしたKiekegaardの実存の考え方と、マルティン・ハイデガーの考え方とは、同じであることは明瞭である。つまり人間の実存には、本来的なあり方非本来的なあり方があるのである。

ところで中世哲学における実存の考え方と実存哲学における実存の考え方とには、大きな隔たりがある。大きな意味の転換がある。

では何故、意味の転換が生じたのだろうか。

それは、人間の中に次のような意識が生じたからである。

一)人間とは、他の動物と同列に扱われてはいけない。

二)同じ人間の中でも、自分と他人は同列に扱われるべきではない。

近現代における人間中心主義の高まりが、こうした二つの理由の背後にある。

こういうふうに新しい意味での実存は、「我」の自覚を中心とするものである。

そうすると、自分と他のものとを区別する意識というものが実存という概念にくっついている。それならば、区別される他者とは何か。

一)  ヘーゲル的な人間観

実存概念は、ヘーゲル的な人間観の反発として生じた。では、ヘーゲル的な人間観とは:

個人の背後に人類(絶対精神)というような共通の存在を考える。そして共通の存在というものこそ本当に在るものなのだ。それならば、個性を持った「今、ここに生きている自分」というものは、人類全体からみれば偶然なものに過ぎない。そんなもの(個々の人間なんてものは)取るに足らないものである。

こういう考え方に対する反発として、実存概念が生まれた。

二)  他者として意識された神

神を他者として区別して、我を意識(自覚)する。この場合、二つのケースが考えられる。

(1)  無神論的な形・・・他者としての神に対する我の反抗 ⇒ ニーチェやサルトル。

(2)  有神論的な形・・・神ならぬ一人の人間が、神ならぬ人間であるがゆえに、かえって神を求める ⇒ キルケゴール。自分が有限なものであるがゆえに、かえって無限なものを求める。しかし無限なものに行き着くことはできない。だからただひたむきに神を求めざるを得ないのである。

三)   人間の平均的な在り方を他者として理解する。そして、それとの区別において我を自覚する ⇒ ハイデガー

 

こういう(一)〜(三)の区別において実存としての我が自覚される。個としての(一人としての)人間の独自性というものが強調されることになる。

概して実存哲学は、社会的な事柄を外面的なもの(表面的なもの)として見て、それと区別された個としての人間の内面性を見ようとする。しかしそれは同時に、他者との連帯をなおざりにする危険性を持っている。

ここでマルクス主義との対比を考える。

第二次世界大戦後、人間の主体性ということが強調された(特に戦後の20~30代の世代の間で)。その主体性を特に強調した人と言われるキルケゴールの考え方が広まった。これは、マルクス主義との対比で理解できる。

歴史的決定論(必然主義):歴史の動きというものは、必然の法則によって、必然的に決まっている。こうした考え方が、マルクス主義の中にある。

どんな国のどんな民族の歴史も、最初は原始共産制の社会なのだ。次は奴隷制社会、封建制社会、資本主義社会 → 社会主義社会:発展段階説。

こうした考え方からは、「人間は歴史を造るものである」ということが言えなくなる。

「この法則そのものが、鉄の必然性をもって作用し、自己を貫くこの傾向・・・・」

『資本論』序文。

マルクス主義によれば人間は、必然の法則に動かされ、引きずられているに過ぎない、あるいはせいぜい必然の法則を理解して、みずから決意してこの法則に従い協力するしかない。

「人間の自由とは、必然の法則に従うことである」エンゲルス。

しかし必然の法則に反抗するという自由もある。しかしそれは、マルクス主義によれば意味がない。

 

こういう考え方に対して、人間は、歴史を創造する主体だということが、戦後、強調された。

戦後・・・新しい日本を作らなければならないという意識が国民の間に広まっていた。

これは、一つにマルクス主義批判の意味を持っていた。しかしこの批判が本当に意味を持つためには、一人としての自己に歴史の主体を置いてしまったらだめなのである。大切なのは、主体的実存の相互の連帯でなければならない。そして、こうした連帯による歴史の創造が可能になるためには、社会や歴史のメカニズムに関する社会科学的な知識が必要である。ところが矛盾するようであるが、こうした考え方を持っているのは、マルクス主義の方なのである。 ⇒ サルトル。

 

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