A実存は本質に先立つ(定立)

L’existence précède l’essence.

前にフールキェのところで、実存主義を本質主義と対立させて考えた。

例)

·    人間にとって大切なのは、共通の人間性という本質である・・・本質主義。

·    人間にとって個性の方が人間にとって大切である・・・実存主義

「実存は本質に先立つ」というサルトルの主張は、実存主義が本質主義に優越することを示している。  

実存主義の基本的な特徴:

例)

この存在者の何であるか(本質)は、その存在(実存)から把握されなければならない。

現存在の本質は、その実存にある(ハイデガー)――こうした考えは、本質主義に対立するものとしての実存主義を特徴づけるものである。

この言葉は、サルトルにとっては、どういう意味を持っているのかを考察しなければならない。その厳密な意味を押さえる。  

本質が実存に先立つ場合を先ず考えて見よう(仮定)

たとえばナイフを例にとって考えてみる。

一)    作る人がいる

二)    作る人は、これから作ろうとするものの用途や目的(ナイフの本質)を考えなければならない。作る人は、このナイフの本質にうまく合うような物を作る。こうして作られたナイフが持っているの一定の形体が、ナイフの実存になる。

ナイフの場合 本質が実存に先立つ。一般に道具というものも然りである。

 

人間の場合にも、そうなるであろうか。

(仮定) 本質は実存に先立つ。

一)    人間を作るものがいる。

      キリスト教文化圏では、神ということになる。

二)    作る人は、これから作ろうとする人の本質を考えなければならない。その本質に合うような姿形をした人間(実存)を造り出すのである。

しかし神は存在しないとすれば、以上の仮定は成立しなくなる。

神を否定してしまうということは、人間の本質を決定するものがいないということを意味する:

「人間はあらかじめ定義されない」ものなのである。

⇒ 実存のあり方を規定する本質は存在しない。

「定義されないものは、無としか言いようがない」

「人間は、本来、無なのである。そして無の中から立ち現れてくるのである」。

サルトルがこうした余計なことを言うのは、彼にはやはり神へのこだわりというのがあるらしい。 サルトルの念頭にあるのは、神による無からの創造であると思う。そしてその神を否定するのである。

そこで神を否定すると、無からの人間の出現ということになる。

← 神による無からの創造

   無神論というのは、猛烈に神にこだわるものである。

話を元に戻すと、人間を前もって定める本質はない。しかし本質はないにもかかわらず、人間は各々、特定の在り方を現にしている。それならば、この実存はどこから来たのであろうか。それは、各人が、自分で自分に与えたものである。

「無からの自己創造」――これが、実存は本質に先立つことに関するサルトルの真意である。

「人間は自分自身を造るものである」。  

【コメント】

 なおヘーゲルは、「本質はあったところのものである」Wessen ist was gewesen istと言っている。興味深い発言である。

   

サルトルによると、

「人間とはその行為の全体である」。

人間はその行為によって、自分を造る。

サルトルの思想は実に峻烈極まるものである。人間には、あらかじめ決まっている本質や性格はない。したがって人間は、日々の言動を通して自分を造ってゆかなければならない。

例) どんな理由からにせよ、卑劣な行為を一時でもしてしまえば、その人は卑劣漢になってしまう。

 

「汝のなるべきところのものになれ」 ――なるべき自分、目標としての自己。 今の在り方を否定して、本当の在り方を目指さなければならない。しかしなるべき自己がどんなものであるかは、誰にもわからない。本質は前もって与えられていない。人は、いかに生きるべきかということを絶えず自問しなければならない ⇒ 日々の決断と反省。

こうした営みの中で、自分を造っていかなければならない。

※ 形成的自覚:自分を造り上げながら、自分を見てゆく。

――人間とは、その行為の全体である。ヘーゲルに言わせれば、Wessen ist was gewesen ist.

こうしたサルトルの考え方は、正しいと私には思われる。

 

オルテガOrtega(スペインの哲学者)曰く:

「人間は、自分の可能性を案出しつつ、自分を造る」。

ニーチェ曰く:

人間が本来あるところのものになるということは、自分が何であるかをいささかも予感しないことを前提とする。

 

現存在・被投性という考え方に関連して、人間存在の偶然性の意識に言及しておく。こうした意識が出現したのは、中世的宇宙観や信仰の衰えがあった・

サルトルの「実存は本質に先立つ」という考え方にも、人間存在の偶然性という意識が現れている。それは、彼の文学作品において強烈に現れている。

人間存在の偶然性(contingence)

        gratuité 根拠がない・理由がない。

たとえば) 私はどうして日本人に生まれたのであるか、理由がない・根拠がない。

 ⇒ 偶然性

 absurdité 不合理性(不条理性);理屈に合わない

 angoisse 不安;上記のものに対する人間の情緒的な、感情的な反応

こうしたものが、サルトルの文学作品にはよく現れている。しかも生理的な不安にまで達している。 ⇒ 『嘔吐』(nausée)1938

サルトルは、今ここに投げだされて存在している事実に対して、居直っているように見える。人間存在の偶然性から逃れたいのだけれども、逃れられない。

しかし実存が何ものによっても支えられていないからこそ、人間は自分で自分を自由に支えることができるのである。人間存在の偶然性は、人間を解放してくれるもの、自由にしてくれるものと、サルトルは思っている。耐えられないものではない。彼は、偶然性という事実をごまかすことを、卑怯なことであるとみなす。

 

『実存主義はヒューマニズム』

曰く、この世への人間の登場は、まったく偶然であるのに、これが必然であることを示そうとする人々を私は見下げ果てた奴と呼ぶ。

  ※ 見下げ果てた奴salaud・・・俗語、ひどく汚い言葉

パスカルの場合、彼は、偶然性という意識から神への信仰に入っていた。

ハイデガーの場合、彼は、現存在の在り方を彼の言う存在に結び付けている。

パスカルもハイデガーも、人間を、人間以外のもので支えようとしている。

ところがサルトルは、そうではない。それだけ、サルトルの実存主義は、徹底している。このことは、サルトルの無神論と平行している。

 

今までのことから、「実存は、本質に先立つ」というと、実存と本質は並立するように思われるかもしれないが、本質はないのである。あるのは実存だけである。そういう意味で、この定立は、甘い言い方である。各人が日々の言動を通して造った自分のあり方(=実存)しか、実際にはない。

このような意味でなら、サルトルのこの定立は、ハイデガーの言葉とほぼ同じ意味となる。

 ハイデガーによれば、現存在の本質は、その実存である。

    ヘーゲル:本質は、あったところのものである。Wessen ist was gewesen ist.

 

サルトルの実存についての考え方は、次のようにも説明されよう。

× 存在と現象の二元論

◎ 現象の一元論

サルトルは、前者を否定し、後者を肯定する。現象の背後に、それとは別な存在があるわない。あるのはただ現象だけである。存在とは現象と区別されたものではない。したがって存在とは、現象と同じものとなる。  

× 本質と実存の二元論

◎ 実存の一元論

実存と区別された本質はない。あるのはただ実存だけである。実存=本質。


 存在と現象の二元論では、存在の本質がすべて現象となって現れることはない。現れないこともあるのである。 たとえば愛情表現がない場合にはどうなるか。心の中では愛しているけれども行動には出ない。こうした結論が二元論からは出てくるのである。 一元論では、愛情は、愛情表現の行動と同等である。

  サルトルの現象と存在(実存と本質)についての考え方は非常に厳しい。

 

× 可能性と現実性の二元論

◎ 現実性の一元論

サルトルは、プルーストを例に取る。

      ※マルセル・プルースト『失われし時を求めて』・・・膨大な小説

プルーストの現実の作品を離れて、汲めども尽きぬ可能的な創作力があるのではない。本当にあるのは、プルーストの天才的な作品だけである。可能性としての才能が本当にあるならば、現実化するはずである。現実化しないとすれば、才能はないことになる。したがって現実と区別された可能性を考える必要はない。

 

作家は、才能があるかぎり、作品を書き続けるのである。この考え方は、過酷なまでに峻烈である。 あれば、態度で示せというのが、サルトルの考え方である。

 

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