2 実存の自由

もし神が存在しないとすれば、実存は本質に先立つ。それゆえ各自の実存は、各自で造られなければならない。

⇒ 実存には、自己創造の絶対的自由がある。

☆ 言い換えれば、実存の自由=自己創造の自由

ゆえに実存は本質に先立つことと、実存の自由(自己創造の自由)とは不可分。

L’homme est liberté.:人間は自由だ。

サルトルによれば、実存は、神とか、神により与えられた伝統的な道徳によって、自分が如何に生きるべきか・在るべきかをコントロールされてはならないものである。完全に自由なのである(実存の自由)。

 

1の意味付与の自由と2の実存の自由との関連付けは二つ可能。

その1

意味付与の自由が実存のレベルに移されると、「人間は自由に自分を造ることができる」。

その2

実存の自由というのは、自己を造る自由だ ⇒ 自己変革の自由 ⇒ 自分の現状に満足せず、それとは違う在るべき自己を考える。現に在る自己を越えて、在るべき自己に向かう自由。

∝(比例)

意識は自分の外にある対象に関わっているものだ。意識は自己を越えてゆく運動だ。

 

ずれにせよ、人間の投企には、一定の障害があって、これを作り出すのは、実存の自由である(その2)。ところで人間は、投企に対して何なかの目的とか理想とかが必要である。ところが人間は絶対的に自由だということになっているから、投企に対して二つの可能性しかない。

-      一つは、伝統的な理想や価値に、自分独自の意味付けをすることによって、自分のものにする。

-      一つは、そうするに値するものが、伝統的なものの中にない場合、自分で造らねばならない(inventer発明する)

 

コメント1

サルトルは、『自由への道』という作品の第一部の中で、マチュー教授(サルトルの分身の一人と考えられている)について次のようなことを述べている。

彼は、自分の欲する通りにできた。誰一人、彼に忠告する権利を持たなかった。彼が作り出さなかったならば、彼にとっては善も悪もなかったであろう。何が善であるか悪であるかは、自分でそのつど作り出さなければならない。

 

コメント2

『実存主義は民主主義か』の中には次のようなことが述べられている。

サルトルの教え子がサルトルのところに来た。父は対独協調者。母は愛国者であった。その教え子は、自由フランス軍に加わろうとした。しかし彼は、母のことが気になって、そのことにためらった。サルトル曰く:

「君は自由なのだ。選びたまえ。すなわち発明したまえ」。ところが選ぶためには、判断基準がいる。しかしその判断基準は、自分で作りたまえ。

 

人間は寄る辺なき自由と完全な孤独の中で自分の行為の仕方とその判断基準を自分で選ばなければならない。

自分で発明する以前には、正邪善悪はない。そして自分の行為を正当化するものは、自分自身の選択基準だけなのである。

『存在と自由』では、「私の自由が価値の唯一の根拠である」と言われている。

 ここで倫理的不安angoisse éthiqueということが出てくる。しかし人間は自由であるかぎり、これに耐えなければならない。しかしサルトルによれば、この不安に耐えられない者は、見下げ果てた奴だということになる。

 

サルトルはこういうわけで、伝統的な価値を、伝統的だという理由で信じることを拒否する。それを拒否する理由は二つある。

一) 神あるいは先人たちが作り出したものの奴隷となることである。つまりそれは、人間の自由の放棄に他ならない(原則論)

二) 具体的な状況の中では、伝統的な道徳というのは、行為の選択の役に立たないことが多い(実質的)

例)コメント2によると、彼は、伝統的な徳目である孝をつくさなければならない。他方では、祖国のために尽くさなければならないという忠がある。伝統的な道徳は、この二つのものを義務としている。しかしコメント2では、この二つの徳目が対立している。この矛盾の解決は、伝統的な道徳の中には示されていない。こういうとき人間は、自分で価値を作らねばならない。

 

とはいえ私の私見を述べさせてもらえば、サルトルが、伝統的なものを、それが伝統的なものだという理由で拒否するのは、少し行き過ぎであると思う。各人は、各自の自由に基づいて伝統的なものを再評価し、その際評価に基づいて行為すべきではないだろうか。。

 

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