実存哲学の主な傾向

 

「実存」・・・Existenz()の翻訳後

現実的存在という意味。我々が感ずるものと思っていてくれればいい。

実存哲学という言葉の実存の中には、「真実の存在」が含まれている。現実に存在するものが本当に存在するものなのだと考える。そういうものが実存哲学の立場である。

現実的存在が真実の存在なのだ。

人間である限り、誰でも人間性(human nature)を持っている。人間は一人ひとり個性というものを持っているとされる。

人間性・・・万人に同じように当てはまる、あるいは万人が同じように持っている共通の本質。(共通の本質と普遍的本質は同じこと)

   個性・・・一人ひとり違う。個別的である。

  さて、人間は普遍的な人間性というものを持つと共に、それぞれ違う性格を持っている。それではどちらの方が人間にとってより大切なのかという疑問が生じた場合、当然のことながら、まったく対立する二つの立場が出てくる。

      本質主義:人間という普遍的な本質がなければ、人間は人間ではありえない。だから人間をして人間ならしめているものは、普遍的な性質なのだ。だからこちらが大切だ・・・共通の本質を重視する。こういう考え方は、古代ギリシアからある。

プラトンの「イデア論」・・・イデアとは、物の本質をいう。共通の名前で呼ばれるものがあれば、必ずそれに対応してイデアというものがあるのだ。

たとえば、人間という共通の名前があれば、人間のイデアがある。美しいものがあれば、美のイデアというようなものがある。

共通の名前とそれに対応する本質(イデア)とには、性格上の大きな違いがある。

たとえば

●「美しいもの」・・・多数存在する。個別的である(バラの美しさ、サクラの美しさ)。変化する(美しい花だって、しおれてしまう)

我々が実際に経験できるものはこっちである。しかしこれは本当の存在ではない。つまり真実の存在の不完全な現れ、すなわち不完全な現象・影である。

●「美のイデア」・・・「美の本質」「美そのもの」・・・唯一である。普遍的である。普遍である。これこそが本当の存在なのだ。真実の存在、原型、手本。

 

【注意】 イデアは、古代ギリシアでは日常語で、目に見えるもののことを示した。イデアというのは、天上にある真理の野()にあるとプラトンは考えた。

  イデアの分有・・・イデアを含んでいる

美しいものはそれぞれイデアを分かち持っている。ただその含み方が不完全なんだ。不完全さのために、個々別々の美しさがある。

以上がプラトンの説明

 

他方、もう一方の立場は実存哲学。

人間性というものをありがたがっているけれども、こんなものは本当にあるわけがない。本当に存在しているものは、現に生きている人間そのものである。たしかに現実的な存在と思われる人間は、人間性というものを持っている。しかし人間は個性も持っている。この二つのうちで、後者の方が、現実に生きている人間にとって掛け替えのない大切なものなのだ。なぜならそれぞれの人間をして人間たらしめているものは、人間の独自の個性しかないからである。人間性は、人間の個性を消してしまう。それはイカンと考えている。

個性を持った個別的な現実存在つまり実存こそが、掛け替えのない大切なものという意味で真実の存在である。つまり実存である。

実存哲学が出現した時代的な背景。

思想は決して真空地帯で生み出されるものではない。思想にはその時代の特徴が反映されている。

19C後半以降の時代の特徴・・・厄介な問題が出てくる。一概には言えないが、色々な立場から見ることができる。以下では、19C以降の時代を平均化の時代、神の死の時代という大きな二つの特徴から論じてみよう。

 

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